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Ψ筆者作 「蝉しぐれ」 F20 油彩
 当稿冒頭より、国家による絵画芸術支配について触れたが、ここに至りその最大で直接的なものがあからさまとなる。「彩管報国」とは「絵筆を以て国家に報いる」という、画家側からのスローガンである。
 もう一つ既出拙文の援用。
ところで、藤田嗣治に「アッツ島玉砕」という戦争画がある。これは題の通り、「大東亜戦争」後期の、日本軍アッツ島守備隊を描いたものである。これはそれまでの「戦意高揚、国威発揚」の軍艦マーチ的絵画と趣を異にする。テーマは「玉砕」という戦術的敗北であり、史実から玉砕したのは日本軍であり、本来ならば軍部はその公開を憚るべきものであろうが、傍に賽銭箱を置き、藤田本人に金を入れる観覧者に黙礼させるということまでして公開を認知した。一体その意図はいかなる所にあったのであろうか?それは、戦局の悪化を背景として、単なるプロパガンダ絵画の域を超え、、銃後の国民の精神の有り様にまで深く踏み入ったものと言える。即ちそれは、「お国のためなら」という死の美化、「聖戦」完遂のためその後本当にスローガンとなる「一億玉砕」をも覚悟すべしとのメッセージ性を込めたものととらえられる。
 もしそうなら、絵画という有史以来の伝統ある表現メディアが、ここに至り人間存在そのものの否定に繋がる手段として国策に加担したということになる。
 
 藤田は彩管報国の代表格として批判の矢面に立ちがちだが、彼なりにこれは必然性のあることであった。彼の家系図を見ると各界の「錚々たる」人間と縁続きである。彼の父親は医者、それも軍医のトップである軍医総監(中将相当)であった。因みに前任の総監は森鴎外である。
 先の「アッツ島玉砕」の絵も、観方によれば戦争の悲惨さを告発するような「反戦絵画」にもみえるし、「将官待遇」の藤田でなければ展示禁止の措置を受けるようなものであるがその意図は先に述べたようなものにあったと見るべきだろう。
 その藤田はフランスに渡りレオナルドとなるが、ここでの問題は、前稿で挙げた藤田以外の画家達のことである。これらの多くが戦後において各団体の幹部として生き残り、美術界の現況の礎を築いた者らであり、前記太字で書いた部分を含め、世界美術史上の最大汚点である「彩管報国」に対する総括を何もしていないということである。例えば高村光太郎は戦時、「報国文学会詩部」の部会長となり、戦争賛美の詩を数多く書き、国策協力の立場をとったが、敗戦後「わが詩をよみて人死に就きにけり」との詩を残し、国家褒賞も辞退し東北の山奥に籠る。このような自我におけるけじめ無く、何食わぬ顔で戦後の地位に居座ったのである。
 縷々本邦美術会の問題点を述べた。国家支配、権威主義、ヒエラルキー、情実主義…これらは日本的伝統、因習であると言ったが「彩管報国」とはそれらすべてが底流で繋がっていることの証左と言える。
 別項で述べた中曽根康弘(当時自民党幹事長)の言葉をもう一度あげる。
≪長谷川利行の如く文化勲章や芸術院会員を目指さず、庶民大衆に根差した美術が権力美術や幇間美術を上回る時、初めて日本にも真実の美術国家が誕生するものと思う。政治を志す私なども、大いに利行芸術を学ばなければならないと思い、私は事務所と応接間に飾って慌ただしい毎日を例え寸刻でも眺めながら心の糧にしている。(1972年2月長谷川利行展図録)≫
 「幇間」とは太鼓持ちのことである。美術界に「太鼓持ち」や「芸者」がいるなど考えたくもない恥辱である。しかし、否定もできない。
 今、諸々の政治状況をめぐって偏狭で御都合主義の論理が横溢、これを持ち上げ煽動する御用マスコミや提灯持ち文化人が日本をあらぬ方向に持っていこうとしている。その先にあるのが毛色の違う「彩管報国」である。毛色が違うというのは、その「国」の中身に、商業主義、メディア、テクノロジー、デジタルテクノロジー等による「ポピュリズム」(大衆迎合)が加わったということ。既成画壇の救い難き保守性は勿論だが、目先の「面白さ」や受け狙いに走る諸「コンテンポラリーアート」などと、本質を見据えた、地に足がついた骨太の創造とは明確に識別していく必要がある。