
Ψ 筆者作 「急流2」 F15 油彩
西洋のある時期の絵画芸術はキリスト教と不可分である。しかし元々キリスト教は神の世界のヴィジュアル化を禁じていた。今でもプロテスタントやイスラム教では偶像崇拝を禁止している。イコノクラスム(偶像破壊)運動はその表れであったが、芸術家はそれを無視するかのようどんどんキリスト、聖母マリア、天使、聖人等の図像を創った。イマジネーションを揺さぶるその圧倒的な造形、表現は聖書の文言より神の世界への憧憬、崇拝を生み、教会側もこれを抑え切れず、ついに「公会議」により「礼拝の対象としての図像は禁止するが崇敬の意味ならば許される」との教義に至る。それだけではない。実は世界に広くキリスト教を広めるには、絵画などのヴィジュアル効果は言語の違いを超越する都合の良いメディアともなるのだ。
これらは絵画芸術の意義、機能の一つである。もう一つ、写真という新しいメディアが出来た近代に至っても、絵画芸術の意義は重用された。写真が伝えるものは事象の外部情報即ち「事実」に過ぎないが、絵画は事象の底流にある「真実」とか「本質」というものを伝えられる、「と解釈される」。為政者、権力者は時にこの絵画の意義を悪用した。その代表が西のナチスドイツ、東の本邦軍部である。本邦においては既に日清、日露戦争においても早くから「従軍画家」は存在したが、第二次大戦(大東亜戦争)時においては、そのスケールは格段のものとなる。以下既出拙文より。
≪それはまず1938年東京朝日新聞主催の「戦争美術展」に始まる。これは洋画は日清・日露戦争を主題とする戦争画、日本画は神道、武士道をテーマの歴史画が中心であったが、「戦争」を「美術展」の冠詞とするなど今日では考えられないような、当代の人心の戦争に対する「免疫性」を物語るものである。同じ頃「大日本従軍画家協会」が設立される。趣旨は従軍画家達の大同団結とそれによる「国防宣伝、宣撫工作、慰恤等に絵画を以て尽力する」ことであり、陸軍省後援で役員には官展側の藤島武二、在野(二科)側の石井柏亭等が就き、まさに先に述べた「松田改組」の成果を語るものであった。
翌年それは陸軍の外郭団体としての「陸軍美術協会」となり、会長は松井石根陸軍大将、副会長は藤島武二(藤島死去後は藤田嗣治)、その後会則に「陸軍省情報部指導ノ下ニ陸軍ガ必要トスル美術ニ関スル総テノ問題ニ即応之ヲ処理シ以テ作戦目的遂行ニ協力スル」と、明確に戦争協力をうたい、名実伴に「軍芸一体」にものとなる。
以後毎年、否年何回も、「聖戦美術展」、「大東亜戦争美術展」、「海洋美術展」(海軍)、「航空美術展」、「紀元二千六百年美術展」、「決戦美術展」など、名こそ違え戦争、軍事絡みの美術展がいくつも開かれ、それらは通常の美術団体展を遥かに凌ぐ観覧者を集めるのである。
こうした一連の動きには先の藤島、藤田の他、中村研一、小磯良平、宮本三郎、安井曽太郎、梅原龍三郎、石井柏亭、伊原宇三郎等、多くその後の日本画壇や美術団体の中心的存在となるの画家達の名が見える。
そして戦局緊張の度を加えた1943年、「大政翼賛会」文化部指導により「日本美術報国会」が結成され「彩管報国」は一層明確となる。この会長は横山大観であり、彼が「紀元二千六百年奉祝美術展に出品したは「日出處日本」は、「神洲の霊峰を墨一色によって表はし、これに真紅の旭日を配した。これは筆技を超えた大観の優作であって、その奉祝の誠意を吐露した作品である」との評価を受けたが、それが時局を背景とした国威発揚の意義の評価であり、彼もそれを意図したものであることは疑いない。
≫
(つづく)