イメージ 1
Ψ 筆写作 「夏の宵」 F10 油彩 
 当時近辺の美術界事情について具体的に触れる。先に述べたように本邦美術界は諸々の制度、メカニズムにおいてその草創期から第二次大戦中の「彩管報国」に至るまでは特に「国家」と密接な関係があった。最初の修業期間たる工部美術学校から東京美術学校は官立であり、学閥、官尊民卑の権威主義、ペダンティズムは中身と関係なく今日にまで繋がっている。因みに青木が東京美術学校西洋画科予科に入学した時の受験生はわずか七名で全員が合格している。その中には熊谷守一もいたが、その数示す通り、未だ西洋画の諸体系は整備途上にあった。
 団体展も「白馬会展」、「太平洋画会展」などの会派展を経て、青木たちが騒いだ「勧業博覧会美術部」、その後の1907年の第一回文展など、その両派が審査員を送る「権威」ある官展が中心となった。その後1914年、これに反発し「文展出品者の応募を禁ずる」を旨とした在野の二科会が設立されるが、いずれにしろ本邦洋画界草創期は未だ小さい世界であったのである。
 ところが西洋美術界はその後飛躍的に増大する。例えば、1923年の第10回二科会は、搬入数3039点、入選は絵画54点、彫刻2点と、「未曽有の厳選」と新聞が書きたてるほどの、数字についてだけ言えば、今日どの公募展にも無いような超難関であった。翌年の文展を引き継いだ官展たる帝展洋画は搬入数1609点うち入選108点、帝展、二科と供に三団体の一つで1926年第4回春陽会展は搬入2338点、入選167点、いずれも一割に満たない入選者数であるが、文展や二科創設からわずか十数年でこれだけの多くの応募者がいたということは、西洋美術が日本に流入して以来それへの関心、憧憬、及び画家という職業を目指すものの激増を物語るものである。
 佐伯祐三、里見勝蔵、前田寛治などが作った「1930年協会」も第二回展から公募形式となった。まだ海のものとも山のものともつかぬ二回目、審査員も佐伯ら他展では新人扱いの新興団体でありながら応募600点、入選215点であった。これは帝展、二科では分が悪い、しかしその世界の足がかりは作りたいとの意思もかなりあっただろうが、その後名を残す者の応募も何人かあった。
 これほどの活況を呈したのも、当時の美術界、画家の社会的位置や扱いは今日では考えられないほどで、展覧会批評は新聞文化欄の中心的存在であり、帝展、二科の初入選者は写真つきインタヴュー記事で紹介されるほどであった。また美術誌や評論家などの美術ジャーナリズムはそれだけで一つの文化圏を作るほどの隆盛にあった。したがって一度でもそれらに入選すると「プロ画家」として世間的には通用するようなところがあり、その意味でも応募者は入選、受賞に必死となった。また画家の社会的地位と言えば、その後の本邦戦時に従軍画家が派遣されることになるが、扱いは「尉官(少尉~大尉)」待遇で、絵具の配給も保証というから正に青木の言った「金轡」、「飯轡」による国家との関係も想起される。
 その後雨後の竹の子のように様々な団体、会派が生まれ、かつ離合集散を繰り返したが問題はその中身である。確かに結成当初は高邁な芸術的理念はあったのであるが、その理念の多くは、印象派、フォーヴ、キューヴ、ダダ、シュール、アブストラクト、前衛等外国の「受け売り」、模倣であり、その理念も現実の団体の維持・運営の過程で様々な人脈、派閥、ボス支配、利害関係、勢力争い等に文化国策や官僚が絡むといった有様の、泥臭い社会性によって失われ、あるいは変節し、やがてはそれどころか国家権力による芸術への露骨な干渉、規制が強まり、プロレタリア美術は言うに及ばず、シュールリアリズムや自由主義的傾向の会派、作品まで弾圧を受けることになる。そういう中、画家の方も如何にしてしかるべきところに潜り込み、維持し、アドヴァンテージを得るかは死活問題となる。
 このような状況を想起させるエピソードがいくつかある。
 ヴラマンクによる「このアカデミズム!」の洗礼を受けて帰国した佐伯祐三は1930年協会設立と同時に第13回二科展に初出品している。この際佐伯は川端画学校、美校以来の師であった藤島武二にどこへ出品するか相談する。藤島は一人一点の出品制限のある帝展より二科展の方が有利だと教える。佐伯は二科の創始者の石井柏亭の配慮により、19点が特別陳列され、二科賞を得、しかも米子夫人も初入選する。この時の二科は搬入2923点、入選276点と相変わらずの厳選であったにもかかわらずのこの措置である。確かに佐伯の19点は今日の佐伯の評価を決定づけるような、その時の二科の会場を揺るがすような衝撃的デビューであったが、今日的常識で考えれば、これらの一連の優遇措置は藤島と石井という当代画壇の大ボスの存在なくして考えられない。ただ佐伯自身は折角のそうしたアドヴァンテージを活かそうと言った邪心はなく、純粋な創造的欲求従いすぐに二度と帰らぬ渡仏をする。
 (つづく)