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Ψ 筆者作「夏の宵」 F10 油彩
≪…先に、クールベの絵について、描かれているモティーフや背景を写真に撮り、それをキャンバスに貼り付けたら、作品と同じものになるかと言えばそうではないと述べた。その「そうではない部分」に芸術の芸術たる所以がある。これを造形的イマジネーションが通い合う「幅」と言った。≫
上記「造形的イマジネーション」とは「想像力」のことだが、「創造力」について既出拙文の援用である。
≪上っ面の表象ばかりを追う、先のカラー写真を貼り付けたような「表象リアリズム」は、それが完全であればあるほど画家個人を離れ表象そのものに近づいていく。つまりそれが10あるとすれば10の、写真を貼り付けたような同じものが出来てしまうのである。しかし、真のリアリズムはそうではない。いつもの例で言えば、ラファエロ、ダビンチ、プッサン、デューラー、レンブラント、アングル、ブーグローの7人が全く同じモテイーフを同じ条件で描いても、どれが誰の作品か一目で判るだろう。つまり、総てがそれぞれ完成したリアリズムを呈しながら、「個」が失われ表象だけが残るということはないのである。それは個々の画家が個々の目で見、解釈し、独自の造形性をもってモティーフに対峙した、その「個」の違いによる。…中略…マティエールを殺し、カラー写真を貼り付けたような絵に近づけば近づくほど「個」を失っていくということに気づいているのだろうか?≫
つまり、昨今の表象や外部情報ばかりを追う似非リアリズム絵画は、「個性」がない。つまり、「創造力」がないのである。その画法は技術的には一定の手つづきを踏まえ、経験を積めば描ける。「凄腕」がうんざりするくらい何人もいるのはその証左である。特定団体や市場性といった社会性の中で何某かのアドヴァンテージのを求め何をやろうと、所詮は個人の資質と良心の問題なので関知しない。しかし、実作者として、一美術史学徒として、何より絵画芸術の名において、縷々述べた趣旨により、真のリアリズム価値の本質はそのようなところにはないということだけは言っておかなければならない。
さて、表題の「暗闇にこそ光あれ」ということの意味のまとめにかかる。
別稿「我思う…」の冒頭で、無為、有為、現象と本質、人間の社会的存在と原存在等森羅万象に係る二元論を述べた。文化・芸術においてもその純粋さ、自由さ、物事の本質を希求べき創造者としての姿勢と現にある市場や団体などの社会性との乖離に触れ、ここでも本来のリアリズムと似非リアリズムの相違を純造形的意義の分析により試みた。
その結果筆者が得た結論とは、真理とか価値とか美とかいう普遍的なものは、日常性の白日下の、既成の秩序や因習や社会性等視覚的に明瞭な世界ではなく、手探りしても掴みどころのない≪闇≫の中にこそ潜んでいるのではないかということである。その闇とは闇ゆえに無能無策を以てしては真っ暗な虚無の世界にただ迷うだけである。研ぎ澄まされた精神と感受性、それらを捕捉し引っ張り出せるだけの能力、レンブラントからゴッホなどに至る美術史上の先達にまさにそういう力を感ずるのである。この稿で触れた印象派、ムンク、シュールレアリズム、アメリカンポップなどの芸術に感ずる驚きと新鮮さとは、そうした気がつかなければ永遠に闇の中に埋もれていたであろうものを、白日の下に引っ張りだされたことそのものの驚きと新鮮さに他ならない。
(つづく)