
Ψ 筆者作 「暗い空」F4 油彩
「創造力」は一義的には作り手側の問題であるが、「想像力」の方は作り手と観る側の双方に関わる問題である。作り手側のそれは「絵にしたい」というモティベーションに繋がる必要があるし、観る側のそれは作品の価値判断に関係する。先にディズニーランドを例に、「総てを見せる」こと、即ち想像力(イマジネーション)が介在する余地のないものの逆効果と限界について触れたが、これは絵画芸術にも当然言えることである。即ち絵画的価値とは、送り手り手と受けての間にイマジネーションが行き来するという幅がどれだけあるか、あるいはその幅や想像力自体の質の如何によると言えよう。
ところで下作品は再三援用したしたクールベ作「りんごとザクロ」である。

Ψクールベ作「りんごとザクロ」
この作品について以前以下のコメントをした。
≪…相当な力量のある人でなければここまで描けるものではない。事実ほとんどそういう絵は見たことがない。実際にりんご一つを描いてみたらこの意味はわかるだろう。言うまでもなく、これは写実、描写主義、リアリズム等で概念される、印象派前の古典主義系列に属する作品であるが、問題はその中身である。
リアリズムだからと言って、例えばクールベが描いたこの場面をカラー写真に撮ってキャンバスに貼り付けた場合、それがこの作品と全く同じになるかと言えば決してそうではない。写真に撮ったりんごやザクロはその「表象」に過ぎない。クールベの絵は静物の表象を追ったものではなく、その「本質」に迫ったものと解釈すべきであろう。本質とは「生命」とか「物質の存在そのもの」及び「宇宙」に連なるその背景たる空間である。上掲作品では見えない向こう側の部分も確かに描かれているのである。…≫
次に本邦正統派古典主義のパイオニア中村不折の作品とそれへの拙コメントである。

Ψ中村不折作 「男の裸像」
≪… 造形アカデミズムに「量感」という言葉がある。これは「立体感」とは違う。例えば雲は立体感はあるが重さはない。量感とはその重さ、ヴォリューム、塊、密度の概念である。マネキン人形は中は空洞だが、人体は空洞ではない。五臓六腑が詰まっている。これを描き分けなければならない。皮膚の下のは緑色に見える赤い血が流れている。それを描かねばならない。ヨーロッパ古典主義絵画はそこまで描いているのである。これはとても写真が伝える外部からの「事実情報」程度では応じられない。
件の中村不折の作品はそうした造形修行から生まれたものである。先のクールベのリンゴ同様、写真の「事実情報」を超える重さがある。…中略…不折のような作品は今日ほとんどお目にかからない、骨太で絵画芸術として真のリアリズムに適う。…≫
上記二例で述べたいことはその「想像力」の質である。これらのイマジネーションとは、純造形的なそれであり、感情や美意識といったメタフィジカルなものではない。これが絵画特有の想像力(造形的イマジネーション)である。この種の写実主義絵画にもそれが通い合う、前述した「幅」がある。だから味わいや見応えがある。いずれにしろ「芸術」と呼ばれる以上いずれかの想像力を喚起させるものでなければその力は維持できない。前述した画家が言った「≪「そうぞうりょく≫」がないものはダメ」とはそういう意味だろう。
この辺の意味は、「幅」の無い、したがって想像力が展開する余地のない、即ち芸術としての価値のないものの説明をすれば分かるだろう。
(つづく)