Ψ筆者作 「夜のカフェ」 F4 油彩(画像削除)
その「想像力」について。ディズニーランドというのが世界中にあるようだが、もしウォルト・デズニーが生きていたら彼は現状をどのように見るだろうかと興味を持つ。開園当時、筆者も行きがかり上何回か行ったが、そのたびにもう二度と来るまいと思った。最後から二十年近く行ってないし、もう行くこともないだろう。
一言で言えば其処は総てを見せてしまって、想像力を喚起させる何ものも存在しない。帰る頃は列に並んだ疲労感と、一日遊び呆けたという後悔を、豆腐のようになった頭で感じるのみである。
「すべてを見せてしまう」とは、コンピュータや3Dなどのハイテク、歌や踊りのエンタ―テイメント、着ぐるみキャラクタ―設定等が次から次に押しつけがましく、「ディズニ―世界」の隅々までさらけ出してしまうということ、正確には送り手側が勝手に、確信犯のごとく、「これがディズニ―世界だ」と決めた既製品を提供し、、未成熟な子供や鈍重な大人にその「つくりもの」、ヴァーチャル世界を刷り込ましてしまうということである。
筆者らが子供の頃に目にした、ディズニ―の絵本やTVマンガは、それらに比べはるかに粗末なものであったが、その粗末故に見えない世界を「あとは自分たちの想像で創りなさい」といった無言のメッセージと、その意味での想像力の展開の可能性があった。だから一層夢は膨らんだし、その世界に引きづり込まれたという強烈な印象は今も忘れない。ウォルト・デズニーが自らの世界に託したものは実はそういうものでなかったか?
別稿で述べたがアニメ監督宮崎駿は以下のように言っっている。 ≪…本当に大切なものは、iナントカ(ipad)じゃ手に入らない…消費者になってはいけない。生産するものになれ≫
時代は今、ハイテクを駆使し、便利さ、視覚的「驚き」、享楽を与えるような製品を競争して次から次に売り出している。電車の一車両でも読書している人は無く、ほとんどの乗客が下を向いて何某かを動かしている。あえて言うならそれらのほとんどが無ければ無いで済むもので、それらはヴァーチャルであり、疑似体験(シュミレーション)であり、イリュージョンであり、想像力も創造力も介在する余地はほとんどない。このテクノロジに支配されまくる不気味な世界は、受動的で、現実とヴァーチャルの区別のつかない、情報操作、世論誘導で管理しやすい人格を形成する。付け加えれば「原発を必要とする電力需給」とはこうしたものも含んでいるのである。
昨今の「保守・右傾化」世相の一翼を担う、ネット上の一傾向の発言を、その気になって読んでみると、知識は受け売り、聞き覚えのフレーズ、既成の威勢の良いだけのスローガンに飛びつき、自分の言葉で自分の思想を語っているものはほとんどない。そういう者らが発する安易なレッテル貼りや「ヘイトスピーチ」にいたっては、その軽佻浮薄、品性劣悪、自我の人格に係るプライドすらない。
これは何も政治に限ったことではない。Wカップサッカーやアイドルグループにバカ騒ぎする者、アキバ系オタク趣味等自らの没主体性とその創造力の貧困から「みんなでバカなら怖くない」風の、「文化的集団的自衛権」という意味でその保守性に脈絡を持つ。先の宮崎の言葉は、現下の若年世代のそうしたことを指摘したものであろうが、それはここで言う「全部見せてしまう」ことによる想像力の働く余地を与えない、テクノロジー、諸メディア、商業主義の罪悪そのものである。
(つづく)