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Ψ 筆者作 「オースゴールストランの夜」 (ムンク作「桟橋の少女たちによる)F6 油彩
 オリジナル(上から6番目) http://mizukawa-t.sakura.ne.jp/hokuou/munch7/munch7.html
 
 深海調査の潜水艇のスポットライトが暗い海底の一角を照らし出す時、ただ無暗に暗い虚無の世界と思われていた其処に、無数の生命が生きており、その生命たちが眩しい光に慌てて驚き騒ぐような光景を、科学番組で見たことがある。
 ムンクの絵とはそういうような、普通は光が届くことがない人間の深層世界に、芸術としての機能たるスッポトライトを当て絵画空間として表象化したものとの感慨を持つ。「叫び」もそうだが、筆者には上記「桟橋の少女」という作品が特にそのように思え、個人的には絵画史上で屈指の作品の一つに数える。それは、北欧特有の白夜のような明るい夜の光で炙り出された、人間としてか、少女特有のものか、得体の知れない存在への不安であり、総ての現象世界の瓦解の危機を孕んだ不気味な静寂感が漂う。上掲作は、その作品を今少し具象化したら如何様になるだろうかということを、描かれた当時と今もほとんど変わらないオースゴストランの街の現在風景を背景に試みたものである。
 ところで以下は、美術史上一時代を画した「シュールリアリズム」と「アメリカン・ポップアート」にかんする既出拙記事である。
 
≪英語で「個人」のことをindividualと言う。これはdivide(分ける)に否定冠詞inがついたものである。つまり、個人とは宇宙の最小・最終単位で「もうこれ以上分けられない」という意味であったはず。
 ところがそうではなかった。躁鬱症、分裂症や多重人格など純粋な精神病理学的分野に限られず、もっと日常的なことで、人間は自分を自分でコントロールできないとか、自分で判らない自分があるとかいうことがある。そういうことがフロイトなどの精神分析などにより証明された。つまりさらに分けられるものであったのである。ここに無意識、潜在意識、夢、オートマティズムに着目したシュールレアリズム芸術が生まれた。≫

≪「アメリカンポップアート」における、A・ウォホールのポートレート。R・リキテンシュタインのコミック・ストリップ、J・ジョーンズの星条旗、J・シーガルの人型…それらは本来の人間社会におけるそれらの意義や機能を剥ぎ取り、全く違う形相で芸術として現れている。そのことで見事にマスメデアやテクノロジーの発達で巨大にふくれあがった人間社会のド真中から裏返しに人間や芸術を浮かび上がらせている。
 つまり従来の芸術は「精神」を詰め込まれ.「個」などという厄介なものをひきずり、泣いたり叫んだり右往左往する「人間」というものを中心に考えてきた。
 しかしアメリカンポップは人間を人間の側からでなく、人間の属する.それ自体自立し増殖し、モンスターのように巨大化したは背景の中から捉える。人間すら金太郎飴のようであり、薄っぺらで大量生産大量消費される哀れなもとなる。≫
 
 そもそも芸術とはある既成の解釈に対する別の解釈によるアンチテーゼの試行錯誤と言ってよい。上記二例は「人間」に係る「芸術としての優れた解釈の仕方」である。そして先のムンクの芸術もまたそうであった。その試行錯誤は、メタフィジカルなものを探る「表現主義傾向」のみならず、色や形それ自体の固有の生命を追う「造形主義傾向」もそうである。古典主義系は事象を正確に描写するという意味で「リアリズム」と長く信じられていたが、印象派は太陽光線のスペクトルへの着目や大気遠近法により、リアリズムへの新たな科学的視点を開いたし、セザンヌはさらにいっそう純粋にそのフォルムや色彩を解放し、それが20世紀絵画のフォーヴ、キューヴ等百花繚乱を生み、その後の抽象絵画へと繋がる。こ試行錯誤を可能にする根源的な力が以下の二つの「そうぞうりょく」であり、作品として価値あるものとする力が「才能」というものだろう。
 子供の時ある画家のアトリエに通っていたことがある。その画家は「絵画で大事なのは≪そうぞうりょく≫だよ、これがない絵はダメな絵だ!」と言っていたのを覚えている。この「そうぞうりょく」が「創造力」なのか「想像力」なのか、長いこと分からなかったが、いつかその両方だという認識を持つようになった。事実古今東西、美術史上に名を刻んだ作品は凡そそうであるし、前述の芸術例でも総てその両方を満たしているのである。
(つづく)