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 Ψ 筆者作「ゾーン2」 F30 油彩

当書庫において一~十三の記事に分け昨今の世相に係る存念をまとめてみた。以下はのその二、三の「文化・芸術の二元論1,2」と題したものである。

http://blogs.yahoo.co.jp/asyuranote/63990849.html
http://blogs.yahoo.co.jp/asyuranote/63990858.html
 
 その中で筆者は以下のようなことを述べた。(一部編集)
≪…そうしたテーマは置き去りにされたまま、芸術がそれに対応した新たな創造を成し得ず、人間の側ではなく「時代の側」に傾斜してしまったということであろう。一方に国際政治、グローバル経済、生産と消費の諸システム、マスメディア、テクノロジー、商業主義文化、IT社会など有り、一方にそれら、それ自体が生命体であるごとく巨大に膨れ上がったモンスターに管理され、誘導され、情報操作され、人畜無害の「文化的価値」を提供され、流行りものや話題性に群れ集まる大衆有り。…≫
と述べ、商業主義をベースとした「アニメ」という表現メディアはその「人畜無害の文化的価値、流行りもの、話題性」たる「集団性」に類するものとの批判的認識を示した。
 また別のとこで
≪…その匿名性とヴァーチャル性が仇となり、創造力のない、思想のない、自分の言葉を持たない故に、与えられる既成の、威勢が良いだけのスローガンやヘイトスピーチ等のレッテル貼りに手っ取り早く飛びつき、そういうものにしか自己のアイデンティティーを支えられない≫
というネット世界の人格傾向、また電車の一車両中の七割以上が手許で妙なテテクノロジーを弄繰り回しているという異様な光景についての認識を示した。

 この記事をアップした直後、その内容に対する一回答のような、他ならぬその当事者であるアニメ監督である宮崎駿氏の文を目にした。 
 その趣旨は、
≪現在の子供達の環境がアニメ、ゲーム、携帯、マンガなどバーチャルなものばかり。そんなバーチャルなものが子供達から力を奪い取っている、自分達のアニメの仕事も同様で、それが自分達の抱える大きな矛盾。その矛盾の中で、何を創ればいいのか、いつも自分たちに問い続けながら、映画を作っている、…iPadに何の関心も感動も持てない。人がそれを触っている様は気色悪いだけで嫌悪すら感じる、その内に電車の中でその妙な手つきで自慰行為のようにさすっている人間が増える、誰でも手に入るものは、たいしたものじゃない、本当に大切なものは、iナントカじゃ手に入らない…消費者になってはいけない。生産するものになれ≫
 等々のもである。
 この宮崎氏の自らの「デメリット表示」を厭わぬ率直な見解は、当方主張の然るべき場所での客観性の証左となり得る満足なものであったし、創造者、表現者としての氏のポジションを語るものとしても評価すべきものである。

 また氏やスタジオジブリ共同設立者の高畑勲監督ら4人は同制作会社「スタジオジブリ」の月刊パンフレット「熱風」7月号に以下の趣旨内容の寄稿をした。
≪憲法を変えるなどもってのほか、「改憲発議三分の二要件」を「過半数」に緩和しようとするのは詐欺であり、やってないけないこと、慰安婦問題など歴史認識についても民族の「メンタリティ―」(表現筆者)に属することについて、悪いことは認め、必要な謝罪も賠償もすべきこと≫
等と述べさらに、
≪政府のトップ(総理)や政党のトップ(橋下市長)たちの歴史感覚のなさには呆れる。考えの足りない人間は憲法なんかいじらないほうがいい。勉強もしないで思いついたことや、耳に心地よいことしか言わない奴の話だけ聞いて方針を決め、それを国際的舞台に出してみたら、総スカンを食らって慌てて『村山談話を基本的には尊重する』みたいなことを言う。『基本的に』とは何なのか。おまえはそれを全否定してたのではないのか≫
等と述べた。これも仔細本稿に述べたが、筆者の主張と同じくする。果たして氏は直ちにかの傾向分子により「左翼」のレッテルを貼られ、「もう見ない」などの反発を受けたが。

 さて筆者は[日本を取り戻すの笑止」と銘打ったまとめの記事中で以下のようなことを述べた。
 ≪…その主たる目的は、集団的自衛権の行使を可能にし、「国際貢献」という名のアメリカの世界戦略への追随を一層進めることである。結果日本全土はアメリカの基地化し、集団的自衛権と「国際貢献」により、政治家、御用マスコミ、防衛省・自衛隊幹部以外の日本人の戦死者が出る。
 そしてこの改憲への尻をたたいているのが、身勝手な「解釈論史観」と人種的偏見・差別である。
 仔細本稿に述べたが、歴史認識に係る、その陣営のものを読んでみるとほとんどが、民族のメンタリティーとかアイデンティーティ―に対する視点が全くない、「モノカネ施し」主義で総てを合理化させ、誰が見てもやったことをたことをやってないと言い張る開き直りである。
 「中国人」、「朝鮮人」に対する偏見と差別主義は、世界中で否定された前時代的「負」の価値体系であり、それを当たり前のような顔をして、一部大手マスコミや趣味的御用文化人が煽り立てる。
 そうしてその威勢の良いスローガン程度のものに自己のアイデンティティーを見出し、昔懐かしい「国賊」、「反日」、「売国奴」、「三国人」、「非国民」…等ヘイトスピーチを以って自らの人格を貶める続ける、その意味で人間としてのプライドのない人種の跳梁跋扈。
 どう考えても冷静、尋常でないこれらの現象について、そのスローガン的エネルギ―の裡におかしなことを当たり前におかしいと言えない時代とは戦前のそれと変わりない。戦前戦中は、大政翼賛会の中、特に美術界は「彩管報国」という大きな罪を犯した。
 創造、表現に係る一個の人格が、正々堂々自己の立場を表さない、どっちつかずのニュートラルな位置と事なかれ主義、あるいは無関心、趣味的自我保守、それらで自我の安全を図るという「狡さ」の上にあるとしたらその作品とは「ゴミ」同然だろう。≫
 つまり前記宮崎氏らの憲法、歴史観と、当方のそれは全く同じであり、普通に、冷静に事の本質をとらえれば誰しもが思い及ぶものである。

 (つづく)