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Ψ 筆者作「花咲くハーバー」 F4 油彩

 先に伊丹万作が60年以上も前に書いた文に出あった際、これは自分にとっても看過できる話ではない、少なくても彼が指摘しているのは「もの言わぬ衆愚の罪」であり、どこかで自分はその衆愚に組されるは御免であるとの記(しるし)ぐらいは残しておくべきだろうと思っていたが、昨今の余りに酷い現状を見るにつけ、止むに止まれぬ思いであった。今はケジメをつけスッキリし「明鏡止水」!
 改めて言うがその意味でかの一文は第一義には自分のために書いたのであり、他人の共感を得ようとか、然るべき運動、方向の広がりを期待したい(そうなれば結構なことであるが)などの思い、とりあえずはない。事実、昨今世情を賑わせているテーマであり、将来の選択の問題として、あるいは個人の思想の問題として何処かでいつかは問われるべきテーマでもあるにも拘らず、思った通り、その訪問者数が特に増えたわけではないところを見れば、表題を見て訪れたくなるような関心もないようである。
 そもそもネットコミニュティーとは、ヴァーチャルさと趣味的自我保守が匿名性で担保されている世界であり、そこに宇宙の何処かに居る知的生命体に信号をおくるがごとき、思想の共有など望むべきもない。

 ともかく、それは専門的な特別な思想ではない。素直な当たり前の疑問である。
 例えば尖閣問題。あんな吹けば飛ぶような島が、「国難」を煽り、改憲再軍備の有力な動機づけとなり、国家主権や民族の尊厳に係る大問題たると本当にまともに考えているのだろうか?その意味で「日本を取り戻す!」というなら、アメリカに頭のてっぺんから足の先まで「占領」されている現状を先ず克服すべきであろうが。一体、どの面下げてそのようなことが言えるのか!?
 「日本を取り戻す」というならなら、尖閣の面積の何倍、何十倍かの領土、領海を失ったフクシマの教訓を得て、時間の問題と言われている「南海トラフ」に備え、原発全廃を目指すのが当たり前だろうし、国の諸々の主体性を奪うTPPなど参加の余地はない。つまりかのお題目は利害得失と「寄らば大樹の陰」の方便に過ぎない。
 中国による尖閣への領海侵犯は確かにある。しかしそれを国防の観点から改憲再軍備の理由とするなら竹島はどうなる?そこは領海侵犯どころか韓国軍が占領しているのである。この「領土を侵された」事実について、現行憲法下でも「専守防衛」による自衛隊の出動は可能である。何故それをしない!?
 それが、「日韓関係」の現実、即ち経済、人的交流、歴史的経緯、何より平和的解決の方がはるかに大きく重大だからであろう。それなら尖閣も同じではないか!
 つまり、尖閣などは口実である。その主たる目的は、集団的自衛権の行使を可能にし、「国際貢献」という名のアメリカの世界戦略への追随を一層進めることである。結果日本全土はアメリカの基地化し、集団的自衛権と「国際貢献」により、政治家、御用マスコミ、防衛省・自衛隊幹部以外の日本人の戦死者が出る。
 そしてこの改憲への尻をたたいているのが、身勝手な「解釈論史観」と人種的偏見・差別である。
 仔細本稿に述べたが、歴史認識に係る、その陣営のものを読んでみるとほとんどが、民族のメンタリティーとかアイデンティーティ―に対する視点が全くない、「モノカネ施し」主義で総てを合理化させ、誰が見てもやったことをたことをやってないと言い張る開き直りである。
 「中国人」、「朝鮮人」に対する偏見と差別主義は、世界中で否定された前時代的「負」の価値体系であり、それを当たり前のような顔をして、一部大手マスコミや趣味的御用文化人が煽り立てる。
 そうしてその威勢の良いスローガン程度のものに自己のアイデンティティーを見出し、昔懐かしい「国賊」、「反日」、「売国奴」、「三国人」、「非国民」…等ヘイトスピーチを以って自らの人格を貶める続ける、その意味で人間としてのプライドのない人種の跳梁跋扈。
 どう考えても冷静、尋常でないこれらの現象について、そのスローガン的エネルギ―の裡におかしなことを当たり前におかしいと言えない時代とは戦前のそれと変わりない。戦前戦中は、大政翼賛会の中、特に美術界は「彩管報国」という大きな罪を犯した。
 創造、表現に係る一個の人格が、正々堂々自己の立場を表さない、どっちつかずのニュートラルな位置と事なかれ主義、あるいは無関心、趣味的自我保守、それらで自我の安全を図るという「狡さ」の上にあるとしたらその作品とは「ゴミ」同然だろう。