話を戻す。かつて奥野誠亮元文相は以下のような発言をしたことがある。「創氏改名」は強制させたものではない。朝鮮人が自らの意志で行ったものである。自分はその担当窓口だったから間違いない。」と。
「創氏改名」とは、金○○という朝鮮人名を金田〇夫という日本人風に苗字を創設し名前を改めるということ、ちょっと考えただけでも誰が好き好んで親のつけた名前を変えるかと思うが、この辺の精神の問題にはかの御仁には及びもつかないのだろう。
これも我田引水である。仮に「創氏改名」という行為、手続きが一定の本人の意志であったとしても、それでは何でわざわざそういうことをするのか?そうせざるを得なかったと考えるのが普通だろう。そうしないと就職や就学、その他日常生活一般に差別や不都合が生じたからとするなら、それはやはり強制されたものに他ならないではないか!
これは例の従軍慰安婦問題にも言える。軍管理下の慰安所が現に存在したこと、慰安婦制度という存在を示す資料は以下のごとく数多くある。いちいち読むのもうんざりするほど膨大な量である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B0%E5%AE%89%E5%A9%A6
事は朝鮮だけではない。東アジア全域に及ぶ。否これは世界中の軍隊が今も抱えた問題である。
ところで、「50歩、100歩」という諺がある。「お前は100歩逃げたが俺は50歩しか逃げていない」という話から来ている。しかし、逃げた歩数という「現象」ではなく、逃げたという「本質」から言えば、逃げたことに変わりない。
これを逆に例えれば、従軍慰安婦が強制であったか否か、国家が政策として行ったか軍が勝手にやったことか、早い話が強姦か和姦かなどは所詮はその「50歩、100歩」に類する話である。
創氏改名もそうだが、慰安婦問題は、戦争と言う極限状況は、殺人以外にも、人間の尊厳を蹂躙するようなことを伴うということ、それが強制だろうが金を払おうが関係ない。ましてやどっかの青二才が言っていたような、明日をも知れぬ運命の軍人が云々とか世界中すべての軍隊がやっているとか、平時・常人でも世界中で行われていることとか言って、公式の場で合理化できるものではない。アメリカ軍は兵士の「買春」を禁止している。そもそも本邦でも売春禁止法は存在しているのである。これが戦争が背景なら許されるとしたらそれ自体が戦争の罪ではないか!こうしたことを正々堂々と罪として認めず、都合の良い枝葉末節な事象を言い訳がましく言う、これも解釈論である。
繰り返すが、民族も歴史も言語も価値観も生活様式も違う国に武力を背景に進出し、威圧的にその国を支配したこと、それ自体どう屁理屈を捏ねても合理化出来るものでなく、戦争と言うものを背景に人間の様々な尊厳が蹂躙されたのは間違いないのである。インフラ整備などとともに教育制度を充実させたなど言うが、「皇国民化」、例えば日本語も話せない朝鮮人の子供にまで「宮城遥拝」させたのは事実ではないか!?
こうした、やったことはやったと認めること、上っ面の事象ではなくその本質を語ることが何故「自虐史観」か!
右翼・保守=解釈史観論者・反自虐史観論者は、自己に都合がよいある事件について合法であった、ある事件につて証拠がないを繰り返す。混乱した時代、利害関係、かけひき、生き残りや自国のアドヴァンテージのために世界は揺れ動いていた。昨日までの賛成が反対になり、味方が敵になる。鬼畜米英」から「親米追従」に一朝にして変わった日本がそのよい例ではないか!「東京裁判」で「日本無罪論」を展開したパール判事はインド人。対英独立戦争を戦ったインドにしてみれば、敵イギリスともに日本を裁くわけにはいかないのは当たり前の話。新宿中村屋にカレ―を伝えた独立戦争の志士ラスビハリ・ボースは日英同盟下日英双方の官憲に追われたが、これを匿ったのも大亜細亜(アジア)主義者、頭山満であり、日印の関係は戦前からのものであったのである。
そのような時代の合法、非合法、条約、契約はそうした力関係の反映に過ぎない。アメリカは、他国に「非人道の罪」を問うが、「ヒロシマ、ナガサキ」や日本全土空襲、ベトナム戦争時の無差別「絨毯爆撃」等のアメリカの「非人道の罪」が国際法廷の場に曝されたことはない。
そもそも一一事象に証拠を求めたら「歴史」など存在できない。恥となる事象は両当事者が語りたがらないし、証拠も揉み消すことは普通に考えられること。現象・事象の底流にある本質は様々な「状況証拠」から浮かび上がってくるものであり、これを読み取らなければならない。一番信用できない人間とは、確かに行った行為に、「そんな覚えはない、証拠をみせろ!」と開き直る奴である。国家も同じ、そういう態度がどれだけ世界の信用を無くすか?「反日」を言うが、戦後「良いことをした」日本と一緒になりたいという国は一つもない。
こういう「本質」をみれば中国、朝鮮半島への侵略は明らかである。
かの国民的作家、当代のインテリ階層を代表するような夏目漱石は以下の言葉を残している。
「余は支那人や朝鮮人に生れなくって、まあ善かったと思った。彼等を眼前に置いて勝者の意気込を以って事に当たるわが同胞は、真に運命の寵児と云わねばならぬ」
またこれは初代朝鮮総督であった寺内正毅が「朝鮮併合」成就の祝宴で詠んだ短歌である。
「小早川 加藤 小西が 世にあらば 今宵の月をいかに見るらむ」
小早川とは小早川秀秋、加藤は加藤清正、小西は小西行長、いずれも豊臣秀吉の命を受け、朝鮮征伐に派遣された武将たちである。
これらの言葉のどこに解釈論者の言う「アジア解放」とか「近代化への貢献」の意思があるだろうか!いずれも、当代のエスタブリッシュメントの差別と侵略的野心に満ちた、国家のアドヴァンテージに陶酔した本音である。漱石も森鴎外(軍医総監)も国家に庇護され、国家的権威を与えら、国家による文化管理の一翼を担った、「文化官僚」である。漱石に限らず、当代の文化・芸術の多くが天皇を頂点とする強大な国家主義の支配下におかれ、その現象世界の因果で終始する思想は本質への限界を示し、故にそういう作品もほとんどつまらないと思えるものだった。
これに対し石川啄木は以下の詩を遺している。
「地図の上 朝鮮国にくろぐろと 墨を塗りつつ 秋風を聴く」
啄木の、良く知られた日韓併合を怒り、併合され消滅した朝鮮国の悲哀に思いを馳せる詩である。この辺が、自我の存在を「国家」の枠組みの中で支える漱石と純人間的次元に置く啄木の資質の違いである。言うまでもなく、時流に流されず冷静に事の本質を見つめる、これが誠の芸術の使命に適うことである。因みにこれを一人でやったのが高村光太郎である。彼は若き日、文化官僚(美校教授)であった父光雲らに見るこの国の因習、権威主義に反発、アナーキーでデカダンであったが、戦時一転して「日本文学報国会」詩部会会長」として戦争支持、戦後これを反省して国家褒賞も辞退、東北の山に籠る。
芸術・文化に限らず多くの分野、個人が戦時、威勢の良いスローガンや国家精神論に酔い、「自我」を喪失したことの誤謬を認めている。とするならそれを先取りして事の大局や本質を冷静に見つめる時期あって然るべきである。それはいつか!?「今でしょっ!」
(つづく)