「二元性」については今日問題となっている大きな分野がある。一つは「国」と「国家」、関連するがもう一つは「憲法」と「法律」である。
「国」と「国家」については前述したが、本題の重要な前提ともなるので重複する記述となるが改めて述べる。
先ず、その二元論は以下の通り実態論として証明される。
「国」とは領土という「空間」、歴史という「時間」、そこに住む民族または国民という「人間」、この三者の普遍的要素によって成り立つ。「国家」とはその「国」を合理的に維持、管理、経営する一時代の「機関」に過ぎない。 その二元性の証左が、「国家」が暴走して「国」を危機に瀕しせしめるという事実だ。その最大のものが戦争である。また開発至上主義、生産性優先の結果の環境破壊や公害、先の放射能汚染による国土喪失も「国」への背信行為である。
つまり、一時代の国家は同時代の国ばかりでなく、過去、未来という時間座標にある「国」にも責任を持たなければならない。
因みに最近復活した言葉に「売国奴」との呼称があるが、西の方の某発育不全が、公然と日本の女性にアメリカ兵の相手をしろと言ったそうだがこういうのを正に売国奴というのではないだろうか。ともかく、こうした時間軸の発想なく、同時代の利益のみ追求し、結果、「一億玉砕、撃ちてし止まん!」に至らしめるものは紛う事無き「亡国奴」であろう。
この、「国」と「国家」に係る法的規定がそれぞれ「憲法」と「法律」である。世界の歴史を見れば、それは「国」に係る、原則的、普遍的規定である「憲法」制定への試行錯誤の歴史と言って過言でない。 即ち、独立、自由、平和、基本的人権、民主主義等、国にとって、そこに住む人間にとって、何が普遍的価値かを希求し、そのため野蛮であったり、隷属的であったり、差別的であったり、独裁的であったりした前近代的体制を克服すべき闘いの歴史であったと言える。この原則的、普遍的規定が憲法である。それは時に、一国のみならず人類福祉、地球的環境的視点にも及ぶ。
一方「法律」とは国家を維持管理するための合理的方便である。国家はそのために国民にこれに従うことを義務付ることができる。ところがその国家にも従うべき規範がなければならない。そうでなければ国家はやりたい放題、先に述べた「国」への背信行為も生む。このため、国家に嵌めた強固なタガが憲法である。
以下は憲法99条の条文である。
≪天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。≫
つまり、国民は法律を守る義務があるが、憲法条文の遵守義務者に「国民」は含まれていない。(教育・納税・勤労の三大義務は最終的な受益者は国民であるとした原則的なもので、その意味での「義務」ではない。)その立場に立つのが「立憲主義」であり、この相対関係とバランスが「国民主権」と民主主義の基礎である。
先の最高裁による現行選挙区制度の違憲、選挙無効判決は、憲法が国家=法律に対しその是正を命じた鮮やかな具体的例である。したがってそういう憲法の改正はハードルは高く据えられているのは当然である。また9条のドサクサ紛れに保守勢力が推し進めようとする「改憲草案」は、「天皇元首」という天皇の政治的利用と国民の「憲法順守義務」を規定することにより一時代の為政者が国民を支配、管理しやすくするための本末転倒した立憲主義に反する反動的なものである。
さて本題に入る。昨今話題となっているのが「9条改正」である。その前段措置としての「96条改正」は前述の趣旨により認められるべきではない。いずれにしろ、これをめぐる昨今の動きは、保守系政治家、御用マスコミ、御用文化人、右翼・保守系市民らによる、スローガン主義、と「右向け右、全体進め!」の流行りもの、即ち明確な論理性やけじめ、冷静な状況判断の無い、前述のような、国家と国の二元性、立憲主義、憲法創設に至る洋の東西を問わぬ歴史的経緯等大局的視点を欠いた、いわばAKBやサッカーWカップのバカ騒ぎに似た「遊んでいる」としか思えない現象に見える。
かの暴走老人グループなどは、平和主義、人道主義から反原発に至る憲法の根拠となるべき普遍的価値を理想論だとかセンチメンタリズムと言って片づけたがるが、冗談ではない。歴史は、そのような人類に課せられたテーマを様々な困難を一つ一つ克服しながら実現してきた極めてリアリティーあるものであり、「戦争」とは最後に人類に残った、克服すべきテーマなのである。彼らの言う「日本」や「日本人」に係る胡散臭い精神論のほうが余程センチメンタリズムであろう。
先ず、改憲派の某氏がTVで以下様なことを言っていた。「改憲(当然再軍備を含む)は戦争するためではなく、戦争を抑止するためのものだ」
中身はいろいろあるのだろうが、この発言はまず論理的に通らない、というより国語の問題としておかしいのである。戦争抑止とは戦闘という物理的行為を事前に抑さえる、結果戦争を無くすということだろう。戦争を無くすためなら、兵器を無くし、軍縮に努めるというのが真っ当な論理である。100歩譲って、「〇〇のために改憲、再軍備する、その結果として戦争抑止に繋がる」というならまだ話は分かる。 しかし、その言い分は、「戦争を無くすために」、改憲して軍隊を持ち、戦力を増強させるというのだから、真逆の話である。ともかく、改憲派にはこのおかしな真逆の「論理」がベースにある。
因みに同じ御仁が「スイスが200年間戦争をしてないのは国民皆兵」だからである」と言った。これも誤り。その意義は、「永世中立」という200年前からの宣言とセットにして語らねばならない。これがなければスイスのような列強に国境を挟まれた小国の国民皆兵など吹けば飛ぶようなものであろう。即ちスイスが他国に併合や攻撃の大義名分を与えなかったのは「国民皆兵」だからではなく「永世中立」だからである。日本は中立か?とんでもない話、アメリカと軍事同盟関係にあり、そのアメリカは世界で最も軍隊を動かしている国なのだ。危険極まりない。
また安倍は「実態と条文の齟齬を世界に説明がつくようにする」ための改憲を口にした。これもごまかし。自衛隊は世界の軍備ランキングでも上位に入るような、明確な軍隊である。先ずその実態論から「軍隊がないのは世界で日本だけ」というのは誤りである。
自民党政権は自衛隊(警察予備隊)創設以来「これは有事の際の防衛出動機関であり憲法に抵触する軍隊ではない」と言ってきた。だとするなら実態と憲法条文には齟齬はなく、改憲の必要もないはずである。齟齬があると言うなら、今まで言ってきたのはウソであったと認めなければならない。何れにしろこの辺のけじめ論はない。
けじめ論というならもっと大きな問題がある。(つづく)