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Ψ筆者作 「雪解けの村」 F6 油彩

 古今東西多くの優れた芸術とは純粋で自由なものであった。それは「最小単位」である「個」が精一杯自我の存在をかけて創造し、表現したという緊張感に満ちていた。その「個」の頭上に何某かの別の価値があるとするならそれを信じたほうが早い。そんな限界ある「個」など必要ない。本邦美術界が低迷し、面白くないのは、前述のようにそれが、因習や悪しき伝統の踏襲であり、その意味で保守的で「個」を本当に晒したものがないからである。念の為に言っておくが真の「個性」とは「ブタが空飛ぶ」ようなヴィジュアルなものにではなく、「百万ありと雖も我行かん」という先ず「精神の有り様」を言うのだ。
 先に本邦の美術史上は世界に例を見ないと言った。まさにこの「年鑑評価型美術市場」とは日本的特質なのである。その年鑑類で大きな活字で頭の方に掲載されている「巨匠」たちは、先に述べた「彩管報国」の功あった者、団体展を作りその幹部であった者、その「政治的実績」や根回しで、文化勲章、芸術院会員等国家褒賞に与かった者で占められる。この国家褒賞の原点にあるのが、日本国民の精神生活の文字通り象徴たる天皇である。
  前述したが、本邦美術界は明治期以来の伝統的に国家支配下にあった。それは「おかみ」からの恩賜的褒賞体系、その下の因習、世襲、情実をベースとしたヒエラルキーと権威主義の歴史であった。昨今はこれに商業主義、マスメディア志向、流行といったポピュリズムが加わる。
 この辺りの事情は何も美術界だけではない。文学や音楽、諸エンターテイメント総ての世界に見られる。ある作家は某文学賞が商業主義化、セレモニー化していることを批判してその審査委員を辞退したが、「○○賞作家」が冠されなければ話が始まらないような、これも世界に例を見ないような文壇の常識は滑稽ですらあるが、作家自身がその価値体系の呪縛から抜け出せていない事は何より文学のためにはならないと思うのだが。他にその意義や責任感を忘れた、体制の提灯持ち、御用マスコミ、御用文化人の氾濫も嘆かわしいが仔細は後述する。
 大正時代の一時期、あるいは戦前や戦争直後には、芸術の自由や純粋性、人間の「存在」を真摯に追求する芸術も無かったわけではない。これを件の分析によれば「本質」、縷々述べた因習やポピュリズムを「現象」とした場合、それは文化・芸術に係る「二元論」ということになる。

 因みに、先に「画家は「ガレキの山」を羅列し、…いっそうのステータスやアドヴァンテージを求め、俗物化する」と言ったが、これは画家のせいばかりではない。元々絵画など創造、表現に係るメティエとは、人間社会の生産と消費、労働と報酬のメカニズムから排除されたものであり、この「生産社会の罪」自体が古今東西あらゆる芸術のテーマにさえなってきたのであるが、この辺の認識を余程の知性ある者を除き一般市民社会に求めるのは困難であろう。
 ネットコミニュティーで某自称絵画愛好家が、「画家にはプロとアマがあり、プロとは税金を払っている画家であり、日本にはほとんどいない。したがって日本の画家はほとんどカタリである」旨を広言して憚らなかった者がいた。因みにこの御仁の作品とは、そうした人格、知性を反映した、観光地の風景写真を転写するだけの、それもまるで基礎ができていない半端なもので、ルーブルから幼児絵画まで、内外数万点の絵画を観てきた身からすれば、「絵画」と言える価値は皆無、ゼロであり、造形に係る御高説も子々孫々以下誰にも伝授できないデタラメ、時間と画材の徒費を思うばかりであるが、その分を差し引いたら、「貧乏絵描き」は古今東西「常識」であることは間違いない。その常識の投網をかければ「違ぇねー」と言うことになろうが、その意味で常識を借りた安易で粗雑な投網行為自体は誠に卑劣であるが、こうした俗物、俗説、常識に立ち向かうために、芸術家も生身の人間であるので、きれいごとばかりは言えず、生きていくべきアドヴァンテージを求めるのは必然である。ただ本来の立ち位置を忘れ、自らそうした「現象」にしがみつくことは、何よりみずからの芸術の尊厳を貶めることになろう。

 さて、「3・11以後人生観、世界観が変わった」という人を何人か知った。「南海トラフ」のエネルギ―放出は時間の問題らしい。首都直下型も富士山噴火も…。「3.11」は「終わりの始まり」という声も。そういう人のことを、これらのことから、自我の存在とか人生とかいうものの脆さ、限界を感じ、故にこそ如何に生きるべきか、而していかに死すべきかを真摯に考え、諸々の事象を真面目に捉える人たちと思えた。
 反面現実の世の中を見渡せば、そういうシビアな思想の反映は感じないどころか、むしろ真逆の現象ばかりではないか?政治家、マスコミ、文化、一般社会、口では防災だ、国防だ、何とかミクスだ言っているが、どこかキャッチコピーのような軽薄なスローガン、どこか趣味的、ミーハー的、「本質」を見失った、平成の「えらいっやっちゃ、えらいやっちゃ!」騒ぎに思える。サッカーWカップ、AKB、スマホ、オリンピック、世界遺産…同じレベルでの原発、改憲…「右向け右!全体進め!」で反対方向は封殺される。
 専門家ではない身なら、ことさら深く考える必要はないが、ちょっと冷静に真面目に考えたり、視点を変えたり、裏を読んだりすれば、疑問に思ったり、真に見えてくるものもあろうはずであるのに、安易に流行りの現象や、スローガンに飛びつく。「思想」は借り物、言葉は他人の物、まさに世論誘導、情報操作に無様に乗せられ、いいような方向に持っていかれそうで、このままだと天災以前に衆愚により「亡国」は招来せしめられるとさえ思えるのである。
 TVの討論会で、ある人がある人に対して「あんた、遊んでいるよ!」と言ったが、正に上記のような意味を象徴的な意味で言ったと思えるが、まさに言い得て妙の観あった。
 旧約聖書のエピソードに「ソドムとゴモラ」、「ノアの洪水」、「バベルの塔」というのがあった。いずれも概ね「遊んでいる人間社会」に神が天罰を与えたというものであり、これらは史実らしいので恐ろしい気がする。
 罹災でも罹患でも、自分の「定命」は甘受するが、それが「遊んでいるバカども」への天罰の巻き添え、犠牲であるとか、質的一蓮托生であるとか、以前某ネットコミニュティーに、自分自身を語れない者の、安易で粗雑な「世代責任論」の括りがあったが、何につけても括られるのは御免であるとの一筆程度のものは遺しておきたいと思い、当連続掲載となった。
(つづく)