先ず本論に先立ち、筆者の存念の根底にある万物事象に係る「二元論」について、既出拙記事の援用となる。
≪ある種の宗教や哲学には『無為』と『有為』と言う二つの一見相矛盾する概念がある。無為とは「永遠」、「絶対」など『変わらない』ものを指し、有為とは反対に『諸行無常」、「万物流転」の常に変化し続けるものを指す。
この互いに違背するような概念が何ゆえ併存しているのであろうか?
これを自分なりに解釈すれば説明がつくような気がする。つまりこれは、宇宙、人間、総て森羅万象に係る「二元論」である。
この二元論に立って「変わらない」ものを「本質」、「変わるもの」を「現象」とした場合、人間が否応なしに位置づけられる時空とは、国家、政治・経済・法体系、生産社会、テクノロジー、マスメディア等総て「現象」であり、その人間も家族を最小単位とする、「社会的存在」と言う面において「現象」である。
しかし科学に「原理」があるように人間もそのような「社会的存在」とは別の、その社会的存在面を剥ぎ取られた際の「原存在」と言うべき側面がある。その人間とは相変わらず弱く愚かで迷い多く、老・病・死の不安に怯え、その不安定な存在と肉体の限界を突きつけられ、厄介な人生を背負い、泣いたり叫んだり右往左往しているではないか。
モーゼの十戒、キリスト教義、イスラム教義、仏教哲学等はも今も数千年前と変わらず現代に適用されているのは、その証左であろう。科学の真理がそれらを修正させたのは「ビッグバン宇宙」と「進化論」ぐらいでは?
因みに、時代は変わる、だから芸術も変わると言う話があるがこれは誤り。芸術において変っているのはその「表現形式」であってメッセージの本質は変わらない。なぜなら芸術が向き合うべき「人間」が左様に変わらないからである。…中略…
明治期この国は欧米列強に追いつき追い越せの掛け声の下、富国強兵、殖産興業を推し進め、日清・日露の勝利を経て、国家神道、皇国思想を精神的支柱とした強固な国家主義体制を敷いた。…中略…やがては310万人に及ぶ戦争犠牲者、「ヒロシマ・ナガサキ」という究極の破滅を伴う亡国の道をたどったのである。
その亡国の淵で兵士、銃後を問わず、国民に課せられたのが、「鬼畜米英、撃ちてしやまん、一億玉砕」の精神論である。そしてその実践により数多の戦争犠牲者を生んだ。
ところが負けたとたんに手の平を返すように「鬼畜アメリカ」は「恩人」、「永遠の永遠のパートナー」となり、今や頭のてっぺんから足のつま先まで、アメリカ無しでは夜も日も明けないではないか!
あの戦争はなんだったのか!俺たちは何のために死んだのか!と「英霊の声」ならずとも問いかけたくなる、正に古今東西歴史上稀にみる、壮大な「ご都合主義」的大転換と言わなければならない。…≫
この歴史的事実について、先の「現象」という次元で終始すれば、それは国家的次元で説明のつかない、取り返しのつかない、あまりに身勝手で不合理なものと言える。しかしこの国が、その経験を生かし、「本質」に連なる「普遍的価値」を見出したなら、その経験も数多の戦争犠牲者の死も無駄にしないことになろう。この辺りの事は、「憲法と法律」に関し後述する。
「現象」のもっと具体的なものは「社会性」である。世界、日本という国、会社、諸々のコミニュティー、家庭すべて規模の違う社会である。そのうち家庭は最小単位の社会である。
その辺りに関する援用。
≪…一方で仕事や家族など外部の「社会性」からも十分生きがい、達成感、自己啓発は得られると主張するかもしれない。勿論そうしたことを希求するのは結構なことであるが、これは相手のあることでもあるし、.家族といえども別個の人格や主体性を認めなければならない。つまり、いつまでも頼りにできないし、いつか離れていくものである。仕事も同様。いつか辞めなければならない。それまでの肩書は失われ、利害関係で繋がっていた人脈は、もう用はないとばかりに離れていく。そういう場面に出くわした際の空しさは、モノ・カネ、利害得失の結果ばかりを追って来た場合増幅されることになる。そういう時に向き合うのは自分自身しかないのだ。
こうしたことを、「産業廃棄物」と言われる年代で気づくか、人生の早い時期から考えるかの時間差や資質や能力の違いによる質の差こそあれ、多くの人がこうした事実の対処法として、ここで言う「本質」、つまり自我の原存在において普遍的な価値と言えるものを希求しているのは確かだろう。
…中略…本の取次店の売れ筋週間ベストテンというのを見た。生き方とか人間関係に係る「how to もの」が上位を占めている。こういう、「哲学」に通ずる思想体系や芸術、宗教とはまさにその受け皿となるものとして、有史以来常に人間社会の存在して来た。これらは「文化」と呼ばれるものだ。…≫
つまり、人間個人のレベルにおいてもこの現象と本質という二元性において捉えられる。現象とは移ろい易いものであり、 いざとなって後悔や空しさを感じないために、あるいは人生の無駄を感じないためには、現象の中で、ここでいう本質といかに実(じつ)のある関わり方をするか、その「プロセス」における姿勢が問題となる。前回挙例した国家の変質等があっても、何かの純個人的価値(すなわちここで言う「本質」に係る普遍的価値)、を抽出、確保せんとして来た人はその分救われるだろう。
この価値体系が文化」であるが以下はその文化自体の二元性に係る既出記事である。
(つづく)