先に述べたデジタル「アート」とか、コンピューターグラフィックスとか諸テクノロジーによる「疑似造形」の発達は凄まじい。一方で「クローン人間」すら可能と言われているご時世、それは単なる「本物そっくり」を通り越して「3D」(立体)、「動作」から「思考」、「感情」までが云々されている。先に述べたように、「写真のような絵を描く」のではなく、写真がそのまま絵画になったり、劇画になったりするデジタルソフトもある。
 このような時代に、「視覚のオドロキ」という子供っぽい自己満足や「人の手を介した」というテクニックだけでは芸術としての脆弱性は否めない。同じハイパーリアリズムでもかつてのポップアートのような、マスメディア、テクノロジー、マスプロダクション等の持つシビアな現代性を世に呈するとかの造形思想なくして、結果として現れた作品の芸術性を語ることはできないのである。
 問題は世の中がそういう風であればこそ、逆に人間でしかできないもの、人間の体温を帯びた手作りのものを目指すべきであるのに、むしろそのテクノロジ―に迎合し、履き違えた「時代性」に靡くことであろう。つまリ、「テクニック」とはその限りでは「テクノロジー」に取り込まれ、やがて時代遅れとなる電気製品と同じ命運をたどるだろう。
 先にクールベの作品を挙げたが、「画家中の画家」というべき美術史上の先達には、その「テクニック」とは違う、「造形的テクニック」というべき本当の技術を有している。 それをここでは「スキル」と呼んでいるのである。
 例えば写実主義においては、「テクノロジー」に取って代わられる、表象を転写するだけの技術は「テクニック」であり、造形の本質から骨組み肉付けされたリアリズムを「スキル」ということになる。
 そういう意味で敬愛するコローのスキルを分析する。
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Ψ 上 筆者模写によるコロ―作≪牧歌的な踊り≫ 油彩
  下 コロ―作 オリジナル 
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 コロ―のスキルは以下に分析される。
 ○ 独自の緑
 〇 「銀灰色」と呼ばれるハーフトーン
 〇 光源をモテイーフの向こう側に置き、逆光による「透かし」の効果
 〇 煙状の木立ちの表現
 ○ そして最大のスキルとは、無彩色を多用しながら、暗さ、活気の無さ、濁りを感じさせず、無彩色故の詩     情、ロマンのあふれた絵画空間を創出していることである。
 これらのスキルは、油彩独自の深みある色味とマティエールを生かしつつのものなので、絶対にテクノロジーでは創出し得ない。
 余談だが本邦洋画の草創期、数多の画家が絵を学びに渡欧したが、圧倒的な評価を受けたのが、理知派造形主義傾向の代表セザンヌと、主情派表現主義傾向の代表ゴッホである。この評価は外国人画家の間でも同様である。ところが三番手というと意外にもコロ―の名が含まれる。コロ―の名はいろいろな画家の評伝でも随分出てくる。「コロ」と表記しているのもある。ところが、コロ―の画風を踏襲したという画家はいない。その意味でもコローの世界はコローだけのものというところだろう。
 筆者もコローのスキルを学んだがそのまま描いてもコロ―の真似でしかない。これを生かして自分の世界を築かねばならない。
 スキルと言えば。ワイエスの造形スキルも思い出すが、こちらはやや達者過ぎる感は否めない。