
この「文化・芸術の衰退、疲弊」の結果どうなるか?以下はその答えのような文である。これは実は60年も前の、故伊丹十三の父で映画監督であった伊丹万作の「戦争責任者の問題」という一文であり、5年前に当ブログで取り上げたものであるが、最近某紙が同じものを偶然取り上げていたが、全く今に通ずるものとしての感慨を持つ。
【…そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。
このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することができなかつた事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかつた事実とまつたくその本質を等しくするものである。
そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。
それは少なくとも個人の尊厳の冒涜(ぼうとく)、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である。
我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかつたならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。
「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人人の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。…】
もう一つ拙文引用。
≪我々の周りは政治・経済からマスコミ文化、市民社会にいたるまで、凡そ世界は「ウソ」に満ちている。だからそこに埋没していると真実に出会えない。価値のない人生でしかなくなるのだ。此処に芸術・文化の意義がある。我々は優れた芸術作品に接し、それを通じて芸術家の「思想」を知ることができるこの場合の思想とは…中略…継続的にあるいはその都度、自我の生きる意味と真実にため誤魔化さずに人生と向き合う姿勢であり、自我が存在している世界や事象の「解釈の仕方」である。芸術とはそうした「問題意識」を創造と言う形で具現化したものに他ならないと言える。美意識、価値観、死生観など全部思想である。…中略…芸術を愛する者は、こういう真実を求める姿勢ゆえに、覚醒した精神、曇りなき眼力を備えてくるはずだ。それは世界に満ちた理不尽や不合理やインチキを看破するだろう。…≫
このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することができなかつた事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかつた事実とまつたくその本質を等しくするものである。
そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。
それは少なくとも個人の尊厳の冒涜(ぼうとく)、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である。
我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかつたならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。
「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人人の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。…】
もう一つ拙文引用。
≪我々の周りは政治・経済からマスコミ文化、市民社会にいたるまで、凡そ世界は「ウソ」に満ちている。だからそこに埋没していると真実に出会えない。価値のない人生でしかなくなるのだ。此処に芸術・文化の意義がある。我々は優れた芸術作品に接し、それを通じて芸術家の「思想」を知ることができるこの場合の思想とは…中略…継続的にあるいはその都度、自我の生きる意味と真実にため誤魔化さずに人生と向き合う姿勢であり、自我が存在している世界や事象の「解釈の仕方」である。芸術とはそうした「問題意識」を創造と言う形で具現化したものに他ならないと言える。美意識、価値観、死生観など全部思想である。…中略…芸術を愛する者は、こういう真実を求める姿勢ゆえに、覚醒した精神、曇りなき眼力を備えてくるはずだ。それは世界に満ちた理不尽や不合理やインチキを看破するだろう。…≫
今、大局を見誤った威勢の良いだけのスローガンやパフォーマンスばかりが目につく。文化かくのごとし、アメリカでさえ「右傾化」と評価するような動きは確実にこの国を一定の方向に持っていくだろう。性懲り無く未だに原発と生産性を秤にかける論調もある。技術立国、工業先進国を誇ってきたが、一皮剥いたら、それはヘリコプタ―から海水を汲んで空から撒くようなものであったということを見せつけられたではないか!
例えば、「南海トラフ」のエネルギーは蓄積され続け、その開放は時間の問題と言われている中、その大津波で横須賀を母港とするアメリカ原子力空母が打ち上げられたら、神奈川、東京も「福島浜通り」になる。それは。「尖閣・竹島」どころの話ではない。なぜ今、安保と防災を兼ねる、こんな当たり前の不安が議論されないのだろうかか?また「想定外」というのだろうか?
「尖閣」の国有化は拍手喝采をもって迎える向きが多い。しかし冷静に考えれば、それは「所有権移転」という国内法上の手続きがあったというだけで、領土問題解決のための国際的主張の何の根拠にもならない。このパフォーマンスが中国の政治的パフォーマンスを刺激して、日本の企業や個人が実害を受けたのだ。センセーショナルな現象ばかりを報道するがこの辺の分析はない。
この国の悲劇は文化が眠っていることだ。昨今各メディアの軽佻浮薄、保守化は目に余る。権力が国を一定方向に持っていこうとする場合、それが危険性や不合理を孕むものである場合、権力の無い側に立って疑問や警鐘を呈するのがメディアを含む文化の役目であろう。それが鳴りもの入りで権力の尻を叩いている。「文化人」もタレントも下手に振る舞えば抹殺されるので黙している。
本邦の絵画の世界で言えば、画壇とか市場と言われるものは「社会化」即ち「現象化」している。本来精神の問題である宗教が宗教団体という形で社会化しているように。商業主義、ポピュリズム、権威主義は今更言うに及ばない。
これからの時代、真実を求める者は、そうしたドロドロした「現象」のうねりの中から「本質」の上澄みだけを掬い取るという、それ自体厄介だが価値ある作業に追われるだろう。