イメージ 1Ψ筆者作 「ヨットハーバ―夏の日2」 F6 油彩 
 
  現象とは移ろい易いものであり、 いざとなって後悔や空しさを感じないために、あるいは人生の無駄を感じないためには、現象の中で、ここでいう本質といかに実(じつ)のある関わり方をするか、その「プロセス」における姿勢が問題となる。前回挙例した国家の変質等があっても、何かの純個人的価値(すなわちここで言う「本質」)、を抽出、確保せんとして来た人はその分救われるだろう。一方で仕事や家族など外部の「社会性」からも十分生きがい、達成感、自己啓発は得られると主張するかもしれない。勿論そうしたことを希求するのは結構なことであるが、これは相手のあることでもあるし、.家族といえども別個の人格や主体性を認めなければならない。つまり、いつまでも頼りにできないし、いつか離れていくものである。仕事も同様。いつか辞めなければならない。それまでの肩書は失われ、利害関係で繋がっていた人脈は、もう用はないとばかりに離れていく。そういう場面に出くわした際の空しさは、モノ・カネ、利害得失の結果ばかりを追って来た場合増幅されることになる。そういう時に向き合うのは自分自身しかないのだ。 
 こうしたことを、「産業廃棄物」と言われる年代で気づくか、人生の早い時期から考えるかの時間差や資質や能力の違いによる質の差こそあれ、多くの人がこうした事実の対処法として、ここで言う「本質」、つまり自我の原存在において普遍的な価値と言えるものを希求しているのは確かだろう。
 「哀愁の巴里」関連で書店や取次店の動きに関心をもつようになった。その取次店の売れ筋週間ベストテンというのを見た。生き方とか人間関係に係る「how to もの」が上位を占めている。こういう、「哲学」に通ずる思想体系や芸術、宗教とはまさにその受け皿となるものとして、有史以来常に人間社会の存在して来た。
 これらは「文化」と呼ばれるものだ。しかし、それ自体もまた「現象」のエネルギ―にのみ込まれ次第に胡散臭いものとなっている。以下はこの辺にか係る既出拙文の援用である。
 
≪… ともかく、芸術を取り巻く背景は大きく変わった。戦乱や不治の病により人間存在の脆弱さを前提としなければならない時代があった。未成熟の生産社会にあっては、人は貧困や差別や人間疎外等の混沌の中では生存にかかわる戦いを強いられた。そうした中にあって各種芸術は、緊張感とリアリティーをもって個々の人間に直接語りかけることができたのである。
 そして今時代は確かに、豊穣な物質、便利な暮らし、享楽文化を備えるという意味では一応の成熟を遂げた風だが、それは、人間の苦悩や迷いやは不安からの解放を意味しない。次から次に起こる社会的問題は枚挙に暇がない。鬱病や自殺、昨今のヴァーチャル人間、オタク人間の起こす諸諸の犯罪的行為はGDPや長寿社会の数値的アドヴァンテージとは関係なくおこっているのである。それらは姿かたちを変え、むしろ一層複雑に、人間存在に係るあらたなテーマを投げかけている。 問題は、そうしたテーマは置き去りにされたまま、芸術がそれに対応した新たな創造を成し得ず、人間の側ではなく「時代の側」に傾斜してしまったということであろう。一方に国際政治、グローバル経済、生産と消費の諸システム、マスメディア、テクノロジー、商業主義文化、IT社会など有り、一方に、そのそれ自体が生命体であるごとく巨大に膨れ上がったモンスターに管理され、誘導され、情報操作され、人畜無害の「文化的価値」を提供され、流行りものや話題性に群れ集まる大衆有り。因みに先日の「なでしこジャパン」、そのネーミングの軽佻浮薄もさることながらながら、サッカーのサの字も知らないような小娘からジジババに至るまでのバカ騒ぎを見るにつけ、「≪がんばろう日本≫に勇気を与える」風の決まり文句の氾濫とともに、一体この国には覚醒した知性とか創造力豊かな人間は何人ぐらいいるのだろうか?と思いたくなるのである。
 ともかく「時代の側」の時代とは、その双互に展開する「集団的メカニズム」そのものである。それらに迎合し、その利害関係の中で生き抜くことを志向し、既存の権威主義や因習に壟断されまくるだけの文化芸術もそういう形で集団的メカニズムに組みされたものとなる。
 つまり、かつて芸術の「送り手」と「受け手」の関係は、「個」対「個」であった。今はそういう意味で「集団」対「集団」なのである。…中略… 前述の「映画が芸術であった…」に話をもどす。コンピューターグラフィック(C G)を駆使したアメリカ映画がもたらす「視覚的驚き」は、当初は確かにそれなりのものがあった。しかし、何度も見ると飽きてくる。そればかり見せられると、その子供じみた他愛なさにウンザりする。アニメは世界に誇る日本文化だそうだが、申し訳ないがこの世は、現実味のない夢ばかり見せられて「感動させられたり」、「癒されたり」する単純な人間ばかりではないのだ。そのアニメのフィギュアが「アート」を名乗るのは象徴的だが、アイロニーとしてなら安っぽいがアートと認めてもよいが。…以下略≫
(つづく)