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※筆者作「森で出逢った人たち」F10 (部分) 「佐伯キャンバス」に油彩
 先ず既出の拙文を援用する。

≪ある種の宗教や哲学には『無為』と『有為』と言う二つの一見相矛盾する概念がある。無為とは「永遠」、「絶対」など『変わらない』ものを指し、有為とは反対に『諸行無常」、「万物流転」の常に変化し続けるものを指す。
 この互いに違背するような概念が何ゆえ併存しているのであろうか?
 これを自分なりに解釈すれば説明がつくような気がする。つまりこれは、宇宙、人間、総て森羅万象に係る「二元論」である。
 この二元論に立って「変わらない」ものを「本質」、「変わるもの」を「現象」とした場合、人間が否応なしに位置づけられる時空とは、国家、政治・経済・法体系、生産社会、テクノロジー、マスメディア等総て「現象」であり、その人間も家族を最小単位とする、「社会的存在」と言う面において「現象」である。
 しかし科学に「原理」があるように人間もそのような「社会的存在」とは別の、その社会的存在面を剥ぎ取られた際の「原存在」と言うべき側面がある。その人間とは相変わらず弱く愚かで迷い多く、老・病・死の不安に怯え、その不安定な存在と肉体の限界を突きつけられ、厄介な人生を背負い、泣いたり叫んだり右往左往しているではないか。
 モーゼの十戒、キリスト教義、イスラム教義、仏教哲学等はも今も数千年前と変わらず現代に適用されているのは、その証左であろう。科学の真理がそれらを修正させたのは「ビッグバン宇宙」と「進化論」ぐらいでは?
 因みに、時代は変わる、だから芸術も変わると言う話があるがこれは誤り。芸術において変っているのはその「表現形式」であってメッセージの本質は変わらない。なぜなら芸術が向き合うべき「人間」が左様に変わらないからである。…≫
 
 上記趣旨を最近のいろいろな事象を見るにつけ確信するようになった。
 これは何度も書いたことである。明治期この国は欧米列強に追いつき追い越せの掛け声の下、富国強兵、殖産興業を推し進め、日清・日露の勝利を経て、国家神道、皇国思想を精神的支柱とした強固な国家主義体制を敷いた。しかしそれは、世界の大局から自国を見るというのではなく、自国内部の独善的、一元的スローガンの実践であった。「八紘一宇」、「五族協和」、「大東亜共栄圏」の実態からみれば、「東アジアの欧米列強からの解放」は「解釈論」であり「結果論」でしかない。いずれにしろそれらは世界から否定され、やがては「ヒロシマ・ナガサキ」という究極の破滅を伴う亡国の道をたどったのである。
  その亡国の淵で兵士、銃後を問わず、国民に課せられたのが、「鬼畜米英、撃ちてしやまん、一億玉砕」の精神論である。そしてその実践により数多の戦争犠牲者を生んだ。
 ところが負けたとたんに手の平を返すように「鬼畜アメリカ」は「恩人」、「永遠の永遠のパートナー」となり、今や頭のてっぺんから足のつま先まで、アメリカ無しでは夜も日も明けないではないか!
 あの戦争はなんだったのか!俺たちは何のために死んだのか!と「英霊の声」ならずとも問いかけたくなる、正に古今東西歴史上稀にみる、壮大な「ご都合主義」的大転換と言わなければならない。
  それを「無駄死」としないための方途は二つしかない。一つは世界に向けての誓い、宣言であったはずの憲法9条による平和主義に徹すること、もう一つは、事と次第ではアメリカさんとのリベンジマッチも辞さないという、主体性ある強大な軍備を備えることである。勿論アメリカに対峙できる軍隊とはGDPの何割かに当たる膨大な軍事費や「徴兵制」、「核武装」を要する。筆者は反対だがこれはこれで筋は通った話ではなかろうか?
 ところが、現下の「総保守翼賛体制」下で語られているのはその両方ともでない、アメリカの世界戦略に沿い、これを補完するための、言わば「アメリカ軍日本支部」的軍隊の創出である。とするなら改憲論に当たり、中国等一方の側だけに向けて、「国家の主体性や民族自決」など都合よく叫ばないことだ。
  もう一つ例をあげる。かつて「ヨーロッパ大陸を彷徨する妖怪」と恐れられ、その実践モデルであり、冷戦時代の一方の旗頭であったソ連、東欧のマルクス・レーニン主義は100年を経ずして消滅した。 真面目に搾取からの労働者の解放を目指し、マルクス主義経済を学び、その主義に殉じたんだ者は本邦にも数多いたであろう。そういう人たちの人生は無駄であったのであろうか?
 同様に、「福島」以降、当然のことながら原発の見直しが議論となり、ついには将来ゼロにするという。世界中でそういう方向に進むだろう。長いこと原子力を学びその開発に生涯を費やした「原子力村」の関係者は今、自分たちのやってきたこと、人生そのものが否定されたような、計り知れない喪失感、空しさを感じているのではないだろうか?
 
 ここでは政治・経済の是非の話をしているのではない。上記例はいずれも、冒頭で述べた「現象」に係るものである。つまり、現象とは、左様に、それに流され、それに終始する限り、翻弄され、惑わされ、誘導される、御都合主義で、時に空しい、時に他愛ないものであるということである。「現象」は冒頭のように「社会性」という言葉にも置き換えられる。家族を最小単位とする「社会的存在」としての自我も同様である。問われるのは「本質」との関わり方である。(つづく)