つまり、件の某氏はほとんど絵画、造形の本質的なところを把握していなかった、知らなかったということである。勿論知らないこと自体恥でもなんでもない。知るように努めればよい。その為謙虚であればよい。本人もその辺りのことは自覚していたはずである。しかし彼は、ペダンティズム(知ったかぶり)をもって、正道に挑戦的に対処し、結果居場所を失った。
ネット社会は、匿名性が担保され、客観性のない、趣味的、自己満足的スローガン、野次馬的ポジション、、無知、認識不足等の捌け口、受け皿的要素があり、その故のヴァーチャルである側面があることは否めない。これは他のジャンルで顕著であるが、このカテゴリーにおいても、例えば、自己の作品について「忌憚のない御意見を」などと言って求めておきながら、その通りにしてやると、いろいろ言い訳がましいことや不平不満を言い、揚句に自分は楽しければ良いとか、どうせ趣味だからと開き直る例をいくつも見てきた。つまり、早い話が批評を求めているのではなく「認知」を求めているのである。
そういうものらにとってネットコミニュティーは、波風の建たない、挨拶程度、お噂、世間の評判記程度で、兎角互いを褒め合えるような「類友」が群れたがりがちである。件の某氏の諸言動も、「理系アート」なる得体の知れない体系の一致を好都合とする、やはり真実を直視できない前出の「写真転写氏」に、自らを認知してくれた故「先生」として受け止められた。しかし、コンプレックスであれ、今更腰を落ち着けて事に対処する時間もない、墓場まで持っていくだけのただの「意地」であれ、他に害及ぼすものは自分たち一人でやればよい。
繰り返すが、彼らの罪悪は、公の場で客観的真実に逆らい、真実を語る立場の足を引っ張ったことである。
前述した趣旨の「真実」に近づくには、相応の資質、能力、知性が備わる必要があろう。それが備わってない、しかし、自己の認知を求めるもの、自己の勝手な趣味的スローガンを主張したがる者にとっては「真実」とは誠に都合の悪いものとなる。
異論・反論、アンチ・テーゼ、問題提起あるなら、「自己の真実」の名において正々堂々立ち向かえば良いが、その能も芸もない(作品一点すら公開できないとか)ゆえ、坊主憎けりゃ袈裟まで憎し、毒を食らえば皿まで、時に搦め手から、巾着切りのごとく、ハイエナのごとく、それを語る者の正当な文化活動を妨害したり、存在そのものをカタリだモドキだ言って根こそぎ否定しようとしたりする例は他にも多くあった。
かの「写真写し」は常に「画家」に「プロ、アマ、有名、無名、自称、職業」等冠詞をつけなければ収まりがつかない人間だった。挙句に日本中の絵描きは「税金をはらってない」などと長きにわたり中傷を繰り返した。自我を認めない者にはこのような通俗的レッテル貼り以外に報いる術はなかったからである。
この際、総ての画家、否音楽や文学、諸エンターテイメントに携わる者の名誉のため言っておくべきだろう。
芸術は元々人間社会の、生産と消費、労働と報酬のメカニズムの外に置かれている。 これがある種の人間社会の罪であることは諸々の先達の言葉にもあることだ。即ちそれらにより人間社会は「巣作り、子育て、エサ運び」等虫や動物と違うまさに「人間社会」足り得ているにも拘らず、人間社会はそのことに「報酬」を与えないからである。
そうしたことをいちいち語らず、古今東西、数多の芸術家は、予め与えられないものは与えられず、犠牲にするものは犠牲にし、それでもなお一度しかないその人生を、その生きがいのために賭け、時に身を削り、時に早世し、人間の生き方の一理想的類型を示してきたのである。(この辺は共著「佐伯祐三哀愁の巴里」にも語った)そして彼らの多くが今度生まれる時も、権力者や金持ちではなく、また同じことをしたいと述べている。こういう人種が存在できない人間社会とは、「欲と本能」に支配されるだけの殺伐としたつまらないものとなろう。逆にこうした覚悟と誇りを持てない「芸術家」ならやめた方が良い。卑屈さが作品に現れるだけである。確保するものは確保しておいて、余力でやりたいことをやろうなどという御都合主義は通用しない。
勿論文化芸術にも「社会性」はある。画家で言えば「画壇」とか「市場」がそうであるし、エンターテイメントは商業主義、メディアとも関係しなければならないだろう。しかしそれら多くが芸術の純粋性や理想とは軌を一にしない。芸術家も生身の存在である以上、それらに一定のアドヴァンテージを求めるというのはやむを得ない。しかし、自我の真実と芸術の純粋性を守るか、その胡散臭い社会性の中で上手く泳いでいくか、その比重をどこに置くかは、その人間の人格と「選択」の問題なのである。これを「世俗の常識」を借り、一律に「税金を払わぬ貧乏人」と括る、なんとも卑しい、見下げ果てた人格であろうことか!
人そろそろ相当の年齢に至れば、人の世の仕組みの虚実、人間の本質、人生の意義等、今まで見えなかったものが見え、実体を見抜き、真実を見据えるべき人格、知性も備わるだろう。当然絵画等芸術に対しても真っ当な見方ができる。それに至らぬ者に、「精神」の問題は存在しない。いつまでもこのような俗世界の価値観や因習に支配され続け、総ての価値は金銭に還元しなければ収まりがつかない。時間や画材のムダの所産たる「作品」も推して知るべしである。「この世の恥はかき捨て」とばかりに本人はそれを墓場まで持っていけばそれなりに満足だろうが、その恥はどこかで残れば子子孫孫まで消えることはない。