先の文の趣旨は、「真実」たるべき世界に「ヴァーチャル」(この場合は虚偽)が侵入して来たが、それは放置されたままという、本邦「文化・芸術」の玉石混交たる「事実」について触れたものである。しかし、真に芸術を愛し、真実を求める者にとってこのような現実は看過されえ得ない。否これは芸術に限らない。何事かを真に学び、自己開発に相努めるする人、その精髄を究めたらんと日々切磋する人、そうしたことで事の実(じつ)を知る人にとって、明らかな誤謬、虚偽、誤魔化し、ハッタリ等により、その世界の尊厳が汚され、本質が棄損、歪曲されるようなことが世に蔓延るのは、とても看過できないことだろう。
≪そもそも絵画の意義と目的とは描き手にとっては、感動、美意識、造形感覚、情緒性、思想性等の、絵画という形を借りての表現であり、受け手にとってのそれはその共有、共感である。…中略… そのための最大の要件は作品が「真実」であるということ。表現が「ウソ」であっても伝えるメッセージが作家側の総ての真実を語っているのなら良いのである…中略…その真実とは、「自分の目で見、感じ、解釈し、あるいはイメージし、構成し、自分の色彩やフォルムで絵画空間を創造すること」に他ならない。そのモティベーションやプロセスそのものの造形的密度が生きた絵を創る。一生懸命モティーフを追い、自己の感覚や技術を全力で傾注している絵とは、例え「ヘタ」でもその姿勢そのものが必ず何某かの感動を与えるものである。芸術性とか個性などというものは放ってても後から付いて来る。…中略… 例えば風景画について言えば、造形的モティベーションを誘う対象に先ず目の動きが有り、心の動きがあり、それが手の動きに連動して活きた絵となる。写真は一定の角度から見た「切り取られた結論」でしかない。パースペクティブなどもレンズと眼では違う。≫
絵画を愛する人は多い。多くの人は、少しでも上手くなりたい、良い絵を描きたいとの思いで、真面目に造形に対峙し、日々向上のための努力を惜しまない。趣味だからよい、楽しければ良いよいっても、描きたいものを描きたいように描けなければ楽しくはないだろうし、行く行くは展覧会で発表したり、「真っ当な」公募展に応募したいと思うのも人情である。そういう立場の人が直面しているのは絵画の真実であり、造形の本道であろう。趣味と言っても、そういう真っ当な立場の趣味であって、邪道や趣味的スローガン、自己満足で終わって良しとする人は少ないはずである。勿論一般的な趣味の世界は否定しない。その世界で自由に、好きにやればよい。しかし確実に断言できるが「絵画」とは「絵画的価値」を帯びるものであり、ただの図形や模様とは違う。絵画の方を自我の趣味的世界に合わせて語ろうとし、絵画世界にしゃしゃり出、真面目に絵画に取り組む者に混乱だけを与えるヴァーチャルは行き場を失ったり、発展性のない現実に閉じ込められたりするという例は数多く知っている。
以下は既出拙文からである。
≪ 先ず、例えば自分の孫子(まごこ)が「絵を勉強したい」と言って来た時、花でも人の顔でも「自分の見た通り、自分の感じた通りのことを、下手でもなんでも良いから一生懸命描きなさい」と言うのが普通の人間だろう。その際「写真を上手に写しなさい」と言う人間がいたらよほどの「人格崩壊者」である。実はこのことこそがコドモから超ベテラン、ビギナーから専門家に至るまで凡そ絵画芸術の本質に係る「プリミティヴな原理」に他ならない。古今東西まともな造形の教育・修行機関で写真の転写をカリキュラムに入れているところなど一つもない。これは「創造の自由」などという次元の話ではない。そうして「写真を見て描くべきでない」というのはそういう造形の本質、あるべき姿について語っていることなのだ。≫
まともな人間で、この文の趣旨に異を唱える人はいるだろうか!?当たり前の話である。当たり前の話は続く。
≪そもそも絵画の意義と目的とは描き手にとっては、感動、美意識、造形感覚、情緒性、思想性等の、絵画という形を借りての表現であり、受け手にとってのそれはその共有、共感である。…中略… そのための最大の要件は作品が「真実」であるということ。表現が「ウソ」であっても伝えるメッセージが作家側の総ての真実を語っているのなら良いのである…中略…その真実とは、「自分の目で見、感じ、解釈し、あるいはイメージし、構成し、自分の色彩やフォルムで絵画空間を創造すること」に他ならない。そのモティベーションやプロセスそのものの造形的密度が生きた絵を創る。一生懸命モティーフを追い、自己の感覚や技術を全力で傾注している絵とは、例え「ヘタ」でもその姿勢そのものが必ず何某かの感動を与えるものである。芸術性とか個性などというものは放ってても後から付いて来る。…中略… 例えば風景画について言えば、造形的モティベーションを誘う対象に先ず目の動きが有り、心の動きがあり、それが手の動きに連動して活きた絵となる。写真は一定の角度から見た「切り取られた結論」でしかない。パースペクティブなどもレンズと眼では違う。≫
繰り返すが、上記趣旨は「絵画」が絵画であるための、造形史600余年、連綿と受け継がれているものであり、今日にも将来にも生き続けるものであり、写実主義、自由奔放主義、抽象、幻想、現代美術等々、絵画的価値を希求するものなら総てに貫かれている真理である。この上で写真に「描かされる」ことのない、しっかりした造形性あるを前提とし、資料として、技術的方便として、後は何をどう使おうと作家の責に帰す問題である。
いずれにしろ、上記趣旨は真っ当に造形に取り組む人の集うべき、適正な場で語った当たり前の話であり、価値あるものは素材や技法を超え価値あるし、逆に価値のないものは素材や技法ではごまかしがきかない。
かつて、こうした造形の「本道」、にことごとく反対し、挑戦的な者がいた。その上で、造形の大所高所がまるで出来ていない、写真の転写作業、それも他人が撮ったものや、観光地の広告の転写などの、絵画とは無縁の、ただの図形や模様の類を絵画と言い張る者相手に、様々な「技法」をペダンティックに語っていたものがいた。その技法なるものは、表面的、枝葉末節、造形を真に学んだ者ならとても言いそうもないようなことばかりであり、 事実彼は、ほとんど本格的な油彩タブロ―を描いた経験すらなかった。言うまでもなく絵画の総ての技法とは素材を通じて造形性の本質と関係したものであり、写真の転写作業ごときに適用されるものではない。
やがて彼は自ら姿を消したが、それが必然であり、本人の為にも一番良い選択であったと思う。しかし、こうしたものが造形の本道を語る立場の足を引っぱったのも事実である。
(つづく)