先ず既出拙文から引用する。
≪当裁判所は、○コレクションのうち、T市に寄贈を前提に預けられた作品の一部である6点(以下「Aグループ」という。)と、佐伯若年の作品であって、米子の加筆はないと考えられている作品4点(東京藝術大学所蔵「自画像」(1923年作)、笠間日動美術館所蔵「自画像」(1917年作)、大阪市立近代美術館建設準備室所蔵「戸山ヶ原風景」(1920年作)、東京池田家所蔵「自画像」(1921年作)、(以下「Bグループ」という。)とを対象とし、主として技法的、技術的観点から見て、これらがともに佐伯の手によって描かれたものであるかどうかについて鑑定を実施した。
 …鑑定人Xの鑑定結果(以下「X鑑定」という。)によれば、Bグループの作品は、天分の豊かな、その上に油絵の技法を身につけた美術家である佐伯であり、Aグループの作品の作者は技術的な絵画教育を受けた経験のない、佐伯とは別の人格を持った人物である…Aグループの作品は、既知の佐伯作品と酷似する構図、酷似するモチーフのものが複数存在するが…公表された作品を見た美術関係者の同作品に対する印象ないし評価は、「作品の余りの質の低さに声もなし…顔料処理の不器用さ、モデリングの粗雑さ、色彩感覚の欠如、独創的な意匠の乏しさ…プロの画家の作風を云々する以前の拙劣さ…絵画にする対象を見るのに、明暗・遠近感の感性が鈍く、ために絵画に奥行きのない平面的な図柄しかない…へたなしろうとの描いた作品」(鑑定人X作成の鑑定書)というものであり、これが既知の佐伯作品とはその芸術的価値に歴然とした差異があるとする点で一致している。 …中略… さて、この文中に具体的、科学的、実証可能な内容は一つもない。総て感覚的、経験的なものからくる価値判断である。しかし、中身はドンピシャ!自ら絵画を描き、相応の修業をし、絵画芸術とか造形の精髄に正対した経験のある者なら、それが自他の作品の価値判断においても無意識にも指標とする絵画的価値を突いたものと感ずるだろう。
 また、修復機関の代表U氏は、佐伯の贋作について、一目見て贋作と分かったので直ちに修復を断った旨の発言をしている。因みにU氏は筆者が昔通っていた研究所の講師をしていたと記憶しているが、そうだとすると元々は油画科出身の実作者であろう。いずれも、一刀両断、その経験と感覚から来る理屈抜きの信念に基づいた発言である。そう意味で正しいものは正しい、誤っているものは誤っているという、確信、信念は立証も諸々の配慮も理由づけもいらない自我において絶対的なものであり、それはかくの通り、時には法律と言う市民社会の方便も突き動かす。…中略…法律同様、民主主義も言論の自由も、人間社会を合理的に維持管理する原則であり、指標であり、方便である。それは政治、経済、社会等現実社会の原則としては必要だが、それらの限界も知っておくべきだろう。それらは最大公約数的価値体系を基礎とし、ファジーであり、ニュートラルであり、概して事なかれ主義であり、御都合主義であり、玉石混交、糞味噌一緒、時に趣味的、スローガン的自我保守的の隠れ蓑となる。個人の感受性、思想、経験が常にそれらに服さなければならない社会に文化はない。≫
 
  上記は言うまでもなく「佐伯祐三贋作事件」に関するものであるが、ここで言いたい結論は≪いずれも、一刀両断、その経験と感覚から来る理屈抜きの信念に基づいた発言である。そう意味で正しいものは正しい、誤っているものは誤っているという、確信、信念は立証も諸々の配慮も理由づけもいらない自我において絶対的なものであり…≫というところである。つまり、その道の専門家の有する特定価値判断に働く直観的感覚、能力、経験は、その真っ当な人格と職業的責任において、相当に正しく、相当に絶対的なものであり、相当に信ぜられるものと判断して差し支えないということである。
 「佐伯贋作事件」についてはこのような第一段階としての「絶対的判断」は為されているが、ただこれは、一般的市民社会においてはその限りでは決定的なものとはならない。「証拠」、「証明」、具体的根拠等を伴わないからである.そこで第二段階として、その立証、根拠を伴うものが必要となるが、これも存在する。
 以下はその贋作事件の中心となるテーマについてのものである。
 
 つまり、「佐伯祐三贋作事件」においては、武生市寄贈予定作品であった三十数点の「佐伯作品」は贋作であり、当事者吉薗明子側の「代理人」落合莞爾氏の主張は総て否定されるという事実が明らかになった。
 これを受け過日、落合氏著作物の版元たるJ通信社に対して,以下の趣旨によりその責任を問う文書が送付された。
 
真実の報道と社会的信頼という公器としての責任・使命に鑑み、贋作の横行等違法、不法はもとより、公序良俗に反するものがあるとすれば、これに加担することは許されない。
○佐伯本人の人格はもとより、その生涯を賭けた作品、佐伯の親族等の名誉、尊厳を傷つけるものを将来に向かって放置することは許されない。
 
 ところが、こうした有り余る「真実」にも拘らず、今日に至るも当該J社からは何の誠意ある回答はない。
 これだけ多方面からその真正が否定されているものは、もはや言論・思想等の自由が云々されるレベルの話ではない。
 つまりこの事件は、文化・芸術とは全く関係ないものが、何某かの自己の利益を謀って、虚偽、捏造、詐言を弄し(金銭的利益を謀ったとすればそれは詐欺である)、その世界に侵入を謀ったということであり、その真実、尊厳のためこれにけじめをつけ、排除しなければならない。
 先の文書は「内容証明」付きで正式に送られたものであり、件の事由によりこれを公表する用意はできている。
 (つづく)