
次に二人はセザンヌの「塗り残し」について触れてぃる。
若桑セザンヌが決定的な線をかかないのは、探究しているからなのよ。
丹尾 ためらいがあるから、リアリティが生まれるんですね。決定的な線は、引こうと思えば引けちゃうけど、それでは世界が自分にふれてくる有様は伝えられないんですよ。
若桑 絶対と相対のゆれのなかで、かれは探究を続けていった。そのプロセス、それがセザンヌの絵ですよ。
丹尾 セザンヌの絵には、たくさんの塗り残しがあるけれども、そこにわれわれが見るのは、塗れなかったという消極的な意味ではなく、そこまで到達したという積極的な痕跡ですね。
若桑 「レアリザシオン〔realisasion〕の困難」とセザンヌが言っているのは絶対の探究者だからなのよ。そして絶対の探究は決して実現されない。
丹尾 ためらいがあるから、リアリティが生まれるんですね。決定的な線は、引こうと思えば引けちゃうけど、それでは世界が自分にふれてくる有様は伝えられないんですよ。
若桑 絶対と相対のゆれのなかで、かれは探究を続けていった。そのプロセス、それがセザンヌの絵ですよ。
丹尾 セザンヌの絵には、たくさんの塗り残しがあるけれども、そこにわれわれが見るのは、塗れなかったという消極的な意味ではなく、そこまで到達したという積極的な痕跡ですね。
若桑 「レアリザシオン〔realisasion〕の困難」とセザンヌが言っているのは絶対の探究者だからなのよ。そして絶対の探究は決して実現されない。
先ず一般論から言えば「塗り残し」は何もセザンヌだけではない。そしてその意味は、「もうそれ以上描く必要はない」、あるいは、敢えて隈なく塗りこめないことの「造形的効果」を狙ったもの、あるいは単純に塗る前に他の制作に関心が移っていったもの等分析すれば様々だろう。
仮にそういう理由以外で決定的な線が引けないというなら、一般的にはそれは「造形的敗北」である。なぜなら絵画とは未熟であれ何であれ、今日只今、その時点での素直な諸々の「結果」の提示でなければならず、「わからない」、「ためらっている」、「ゆれている」、「模索中」等の結果たる「逃げ」が絵画的価値を帯びることはない。
いずれにしろ、そのような視点で、セザンヌの「塗り残し」の性格を個々のタブローについて探るのはあまり意味はないだろう。なぜなら、セザンヌの「サント・ヴィクトワール」、あるいは「水浴」シリーズは、モネの「睡蓮」の連作と同様、はじめから個々の作品としての「自己完結性」を予定されて描かれたものではないからである。つまり画業全体が作品であり、個々の作品は若桑自身も言っているプロセスだからである。
この「画業全体が作品」といういうのは佐伯祐三も似ている。佐伯には青木繁の「海の幸」、中村彝の「エロシェンコ」や岸田劉生の「麗子像」のような「代表作」と言えるようなものは直ちに思いつかない。佐伯芸術の意義は画業全体に貫かれている。だから彼もまた「塗り残し」が多いのである。
セザンヌは「探究」はあったが、「ゆれ」や「ためらい」はなかった。「この世に絵描きは一人しかいない、それは私だ!」というほど、彼ほど唯我独尊で確信をもって自己の造形世界を開拓していった画家は少ない。彼は当初印象派グループに参加していたが、後に印象派とも距離をもった。エミール・ベルナールによればセザンヌはタンギーの店でゴッホと一度だけ会っている。その際セザンヌはゴッホに対し「君の絵はキチガイの絵のようだ」と、そのあまりの主情主義に辟易した様子を見せ、返す刀でゴーギャンの装飾性も批判している。
このような画家の、個々の作品の塗り残し程度に特別な意味を持たせる必要はあるまい。
それではそのセザンヌの美術史上の位置づけとはどのようなものであったのか、既出拙文の趣旨を援用して整理する。
印象派前の古典主義系絵画とは、神話やキリスト教的主題、権力者の威厳、女性の美しさ、生活、風景、人間の内面、情念、思想等諸々のテーマを「表現」するため、色彩やフォルムはその「手段」として位置づけられていた。そしてそれを効果的に行うための方法論、技術論としての「造形アカデミズム」の厳格な修練が行われたのである。
数百年の長きを経て、印象派の登場によって、やっと色彩やフォルムの固有の造形的生命が着目される。古典派において色彩は、フォルムの範囲内で、固有色として、無彩色を媒介として繋がりあるトーンの中に閉じ込められていた。その色彩が、太陽光線のスペクトルや大気遠近法の採用など光の表現と相俟って、フォルムの溶解の中で一層鮮やかなものとして解放されるのである。ここに印象派の革命的意義がある
この、「フォルムの溶解」、「色彩の解放」は当然、構成を含めたフォルム自体、色彩自体の創造的展開に発展する。つまり、かつて「表現の手段」であった色彩やフォルムは主要な「造形の目的」となるのである。そうした造形思想を一層進化、純化させたのが正にセザンヌであった。
彼の「サントヴィクトワール」シリーズなどの理知的な色面分割や幾何学的構成の純造形性は、マチス、ヴラマンクのフォーヴ、ピカソ、ブラック、レジェ、ドローネ等のキューヴに受け継がれたという事実は前述のとおり彼ら自身の言葉によるところでもあるが、何より彼らの数多の作品がそれを物語っているではないか。それはさらにその後の抽象絵画にも繋がる。それ故セザンヌは「現代絵画の父」と呼ばれているのである。
ところで、このセザンヌを、件の趣旨から「理知派」の横綱だとすれば、ゴッホは「主情派」の横綱といってよい。今般佐伯執筆関連で内外の評伝何冊か読んだが、マチスら上掲以外にも内外画家達のこの二人への評価は群を抜いている。例えば佐伯は「このアカデミズ!」の洗礼を受ける以前はセザンヌ風の風景画を描いていた。ヴラマンクに見せたのも、セザンヌ風の裸婦であったと推定される。同年同時彼がグランショミエールで描いた裸婦が正にセザンヌだったのでそう推定されるのである。佐伯はヴラマンク、ユトリロを経てやがてゴッホへ傾倒する。またそのヴラマンク自身もフォーヴ後は「セザニズム」と言われるセザンヌ傾倒時代があった。
この傾向は本邦において一層強いようだ。小出楢重にいたってはヨーロッパ遊学を経て「芸術と言えるものはセザンヌとゴッホ以外に無かった」とさえ述べている。つまり、セザンヌとゴッホは「理知」と「主情」、「造形」と「表現」、「世界」と「自我」等絵画芸術、造形の両極峰に鎮座する、どちらかを通過しなければならない存在だったと言える。
件の若桑、丹尾の対談の当該箇所からは、残念ながらこのようなセザンヌへの認識を感ずるはできなかった。