Ψ筆者作 「廃墟の青いバラ」 F120 油彩(画像削除)
幸か不幸か筆者(私)は別件でナマの裁判の経験があるので多少裁判のことを知っている。裁判官や弁護士は法律の専門家ではあるが絵画芸術には素人であるので、各方面の専門家の意見を聞き、証拠、証言で信頼に足るものを採用し判決に至る。その間の裁判官自身の判断は「自由心証主義」が保証され、如何様なるものとなっても良い。この保証として判決に不服がある当事者は上級審に諮る権利を有する。判決が適当でないものは、判決前に「和解勧告」ができるが、実際これで解決する例は多い。しかしひとたび判決が確定したら普通は相当の強制力や執行力を伴う一刀両断のものとなる。件の裁判は和解勧告ではなく判決であるので、それだけ白黒の判断が明快でその余地のないものと判断できる。
因みに、訴状には訴額に応じた印紙を貼る。これが訴訟費用でその費用に弁護士料は含まない。訴訟費用は負けたほうが負担する。また、裁判とは弁護士抜きで個人でできる。ただ素人では法知識は勿論、手続や裁判戦略に疎い。だから代理人に委任できるが、代理を頼む場合はその代理人は弁護士でなければならないということである。
判決は初めに主文として結論だけを伝える。そのあとその理由を長々と説明する。そして件の裁判の主文は以下である。
1 原告の請求をいずれも棄却する。
2 訴訟費用は、原告の負担とする。
1 原告の請求をいずれも棄却する。
2 訴訟費用は、原告の負担とする。
完全な原告(真作派)の敗訴である。先に述べたように、これが「最後の審判」と言うわけでなないが、少なくても法律的にもそういう結論が出たということである。しかしこの裁判記録を読んでみると、例えば金銭消費貸借、損害賠償請求等のトラブルに比し、具体的、客観的で明確な書類や証拠、事実関係が乏しく、かなり感覚的、状況証拠的要素が多く、判決までには相当の時間もかかったようで、この種の裁判の難しさが理解される。
さて、先に述べた、判決で採用された気になる証言の趣旨とは以下である。(一部編集)
≪当裁判所は、○コレクションのうち、T市に寄贈を前提に預けられた作品の一部である6点(以下「Aグループ」という。)と、佐伯若年の作品であって、米子の加筆はないと考えられている作品4点(東京藝術大学所蔵「自画像(1923年作)」、笠間日動美術館所蔵(自画像(1917年作)」、大阪市立近代美術館建設準備室所蔵戸山(が原風景(1920年作)」、東京池田家所蔵(自画像「1921年作」、以下「Bグループ」という。)とを対象とし、主として技法的、技術的観点から見て、これらがともに佐伯の手によって描かれたものであるかどうかについて鑑定を実施した。
…鑑定人Xの鑑定結果(以下「X鑑定」という。)によれば、Bグループの作品は、天分の豊かな、その上に油絵の技法を身につけた美術家である佐伯であり、Aグループの作品の作者は技術的な絵画教育を受けた経験のない、佐伯とは別の人格を持った人物である…Aグループの作品は、既知の佐伯作品と酷似する構図、酷似するモチーフのものが複数存在するが…公表された作品を見た美術関係者の同作品に対する印象ないし評価は、「作品の余りの質の低さに声もなし…顔料処理の不器用さ、モデリングの粗雑さ、色彩感覚の欠如、独創的な意匠の乏しさ…プロの画家の作風を云々する以前の拙劣さ…絵画にする対象を見るのに、明暗・遠近感の感性が鈍く、ために絵画に奥行きのない平面的な図柄しかない…へたなしろうと」の描いた作品(鑑定人X作成の鑑定書)というものであり、これが既知の佐伯作品とはその芸術的価値に歴然とした差異があるとする点で一致している。 ≫
裁判所はこれを判断した人の経歴、社会的立場、実績を安易に根拠にすることはできない。なぜなら、そうしたら相手方が同じことをしたらまた判断の根拠を失うからである。ましてや、その経歴等でいうなら、この混乱の元となった「真作」の判断をした件のK氏のそれらは誰にも劣らぬものがあったのである。
さて、この文中に具体的、科学的、実証可能な内容は一つもない。総て感覚的、経験的なものからくる価値判断である。しかし、中身はドンピシャ!自ら絵画を描き、相応の修業をし、絵画芸術とか造形の精髄に正対した経験のある者なら、それが自他の作品の価値判断においても無意識にも指標とする絵画的価値を突いたものと感ずるだろう。
また、修復機関の代表U氏は、佐伯の贋作について、一目見て贋作と分かったので直ちに修復を断った旨の発言をしている。因みにU氏は筆者が昔通っていた研究所の講師をしていたと記憶しているが、そうだとすると元々は油画科出身の実作者であろう。いずれも、一刀両断、その経験と感覚から来る理屈抜きの信念に基づいた発言である。そう意味で正しいものは正しい、誤っているものは誤っているという、確信、信念は立証も諸々の配慮も理由づけもいらない自我において絶対的なものであり、それはかくの通り、時には法律と言う市民社会の方便も突き動かす。
法律同様、民主主義も言論の自由も、人間社会を合理的に維持管理する原則であり、指標であり、方便である。それは政治、経済、社会等現実社会の原則としては必要だが、それらの限界も知っておくべきだろう。それらは最大公約数的価値体系を基礎とし、ファジーであり、ニュートラルであり、概して事なかれ主義であり、御都合主義であり、玉石混交、糞味噌一緒、時に趣味的、スローガン的自我保守的の隠れ蓑となる。個人の感受性、思想、経験が常にそれらに服さなければならない社会に文化はない。
先のS氏にとって、それなりの「言論の自由」や「訴えの利益」は立ちはだかるかもしれないが、悪いものは悪い、許せない者は許せない、真実の主張は揺るがないだろう。