Ψ筆者作 イメージ 1「煙立つ野辺2」  F30 油彩
   先にも述べたが、高村光太郎と藤田嗣治はともに戦争前後から曲折ある生き方をした。高村は若い頃はこの国の国民性、因習すべてに反逆し、本邦の印象派宣言とも言える「緑色の太陽」の中で、その創造においては「一個の人間あるのみ、≪日本≫など更に無し」と述べ明確に芸術の普遍性を唱えた。もとよりこれは、時空を超越し、普遍的に≪人間≫に、直接に働きかけるという、唯一芸術に与えられた意義であり使命に適うという意味で全く正しい。
 ところが戦時、彼は自らその創造を偏狭な国家主義の枠内に押し込めてしまい、詩をもって国策のプロパガンダに供することに奔るが、敗戦後それを猛省し、国家褒章も辞退し山奥に隠遁する。
 一方藤田は、エコールド・パリの日本代表として華やかに20世紀前半のヨーロッパ美術界にデビュー、のみならず社交界でも「パリの豚児」として有名を馳せたが、これも戦時には欧米列強に抗すとした「大東亜戦争」の国策に従い件の「アッツ島玉砕」など戦争画をもって、「彩管報国」のリーダーとなった。敗戦時その「実績」は批判の矢面となり、これに耐え兼ね、「日本の画家が国際水準に達することを望む」との嫌味タップリの言葉を残し、「神国日本」を捨て、西洋の神の国の人となり、レオナルド・フジタとなる。
 勿論一方に、戦前治安維持法等にひっかかり獄に繋がれたり、戦時、戦争反対を唱え非国民呼ばわりされたりしながら、一貫して自己の信念を曲げず、それが自己の芸術を支えた続けた芸術家もあり、その意味では彼らは「変わり身」の早い、移ろいやすい、いい加減な存在と言えなくもないが、それで片づけてしまうのもあまりに皮相と言えよう。 
 一つは幸か不幸か彼らには当時既に芸術家としての相当な社会的地位があり、その選択はそうした社会性あればこそ否応なく迫られたものものであったということ。もう一つは、他の数多の戦争協力の芸術家が戦後何食わぬ顔してその後の美術界、各団体等の中心的存在に居座り今日に至る因習の権化となったのに比し、少なくとも光太郎においては遁世、藤田においては棄国という形でその出所進退を明らかにしたということである。そして、そうしながら純粋な自己表現、自己実現の結果、相応の芸術の高峰を極めたということは特記すべきであろう。
 高村光太郎と妻智恵子の関係は、歌にもなった「智恵子抄」において知られる。智恵子は旧姓長沼。画家を志し太平洋画会研究所で学び、直後光太郎と知り合う。平塚雷鳥らの女性解放運動の機関誌「青鞜」の表紙を描くなどの活動もした。ところが彼女は、生来の病弱、実家の破産、一説によれば画家としての挫折感など諸々有り、精神を病む。今日でいう統合失調症、佐伯祐三にも診断所見のある精神分裂病である。
 やがて自殺未遂を経て結核により死去。光太郎は智恵子を得てそれまでの「デカダン」を克服し、人を愛すること、人の脆さを知った。つまり芸術の主要なテーマ「人間」に身をもって気づいたと言える。その間の光太郎の智恵子の看護は純愛の為すもの、かの「智恵子抄」はその所産である。そういう光太郎にとって二十数年連れ添った智恵子の死の悲しみは如何ばかりのものか? ポッカリと空いた精神の空虚、取り返し得ない喪失感を埋めるため、言わば「逆自殺」の受け皿に、戦時国家主義の強烈なエネルギ―が成り得なかったとは言い切れまい。
 一方藤田は、軍医の最高位軍医総監(将軍相当)を父に持ち、親類縁者にも数多のエスタブリッシュを排出した家柄の出であり、旧水戸藩士族、軍人の家系にあった中村彝が当たり前のように陸軍幼年学校に進んだのと同じく(病気により画業に転ずることになる)、本来そういう環境にあったということもあるが、いかに藤田の戦時の罪が大きくても、「日本の画家よ、早く世界水準に達せよ」と言い放つだけの、造形史に刻んだ彼独自の造形性は語らなくてはならない。
 明治期以来本邦洋画は、明治美術会→太平洋画会(浅井忠・古典主義系) と白馬会(黒田清輝・外光派系)の二つの流れに大別されるが、もう一系統ある。それは西洋絵画伝統の技法を積極的に受け止めその修練に努めるというのはよいが、ややもすると西洋の模倣に過ぎてしまう傾向のもの。もう一つは、所詮西洋絵画の長き伝統には太刀打ちできない、そのコンプレックスを克服するための方途としてやたらに東洋や日本という属地性を強調する傾向である。結論から言えば芸術の普遍性に鑑みればそれは両方とも誤りである。その意味で言うなら佐伯絵画の価値とはその双方ともに組みされない、まさに絵画芸術そのものの価値に連なるものであるのだが、佐伯の線描に「和の線」、「書の線」を見るという見方があり、それが件の戦時国策にも適うことから一部に喧伝されたが、これは佐伯芸術の普遍的価値を属地的価値に貶めるものであるし、実際そうではないという根拠があるが仔細は他機に譲る。
 ともかく藤田の造形性もその意味では絵画芸術そのもの価値体系で語られ得るものであろう。彼は他の多くの日本人画家の造形性が、印象派、フォーヴ、セザニズム、キューヴなどの影響を色濃く反映したものであるなか、独自の絵画空間を求めるのである。