Ψクールベ作  「りんごと石榴」  油彩\¤\᡼\¸ 1 
 先ず既出拙文を援用する。
≪ 「りんご一つまともに描けないのに…(能書きだけ垂れてる奴が多すぎる)」これは再三引用する、私が研究所へ通っていた時に某美大の教授をしていた某画家の言葉だ。その言葉が常に頭から離れることはなかった。…中略…事実自分は「りんごぐらいは描けるさ」と思い、迂闊にも件の画家の言葉を笑いながら聞いていたが、その後クールベの「リンゴと石榴」という絵を見た時は、まさに「まともに描けていなかった」ことに気づかされたのである。それまで自分が漠然と抱いていた「才能」とか「創造」とか「個性」などというのは、遥かに先の話、まさにそれを語るに10年早い世界であった。…中略… 古典絵画は厳格なアカデミズムを背景に成り立っている。これを否定するだけならアホでもできること。もしこのアカデミズムを否定するならそれに代位するだけの新しい価値を示さなければならない。事実古典派から現代絵画に至るまで、それぞれ前時代までの価値体系に代位する新しい価値体系を示しながら美術史は進んできたのである。一体あの卓抜した技術の、優雅で気品溢れる凄みさえある古典絵画を克服するには、対抗できるだけの価値にどれだけのものが求められるか?考えただけでもそのエネルギーは半端なものではない。
 「表現の自由」、「個性」、「感性」、「新しさ」…等を口にするものは多い。しかしそのどれほどが古典絵画の示したの価値レベルに対峙し得るものであるか?件の画家の言葉とはそうしたものを含めての、自らの厳しい造形姿勢を示したものであろうことは間違いない。≫  
 
 ここで取り上げた「りんごと石榴」が上掲の作品である。相当な力量のある人でなければここまで描けるものではない。事実ほとんどそういう絵は見たことがない。実際にりんご一つを描いてみたらこの意味はわかるだろう。言うまでもなく、これは写実、描写主義、リアリズム等で概念される、印象派前の古典主義系列に属する作品であるが、問題はその中身である。
 リアリズムだからと言って、例えばクールベが描いたこの場面をカラー写真に撮ってキャンバスに貼り付けた場合、それがこの作品と全く同じになるかと言えば決してそうではない。写真に撮ったりんごやザクロはその「表象」に過ぎない。クールベの絵は静物の表象を追ったものではなく、その「本質」に迫ったものと解釈すべきであろう。本質とは「生命」とか「物質の存在そのもの」及び「宇宙」に連なるその背景たる空間である。上掲作品では見えない向こう側の部分も確かに描かれているのである。
 「天使を描いてくれ」と言われたクールベは「天使を見せてくれたら描きましょう」と答えた。ここに真のリアリストたるクールベの真骨頂がある。              
 すなわちリアリズムとは、表象を引き写して終わるのではなく、一歩も引かない描写性を通じその根底にある真実を引っ張り出すことにある。 
 当然その描写性とは、件の造形アカデミズムを基礎にし、腰をすえてモティーフと対峙する故に骨太のものである。例えば上っ面の表象ばかりを追う、先のカラー写真を貼り付けたような「表象リアリズム」は、それが完全であればあるほど画家個人を離れ表象そのものに近づいていく。つまりそれが10あるとすれば10の、写真を貼り付けたような同じものが出来てしまうのである。しかし、真のリアリズムはそうではない。いつもの例で言えば、ラファエロ、ダビンチ、プッサン、デューラー、レンブラント、アングル、ブーグローの7人が全く同じモテイーフを同じ条件で描いても、どれが誰の作品か一目で判るだろう。つまり、総てがそれぞれ完成したリアリズムを呈しながら、「個」が失われ表象だけが残るということはないのである。それは個々の画家が個々の目で見、解釈し、独自の造形性をもってモティーフに対峙した、その「個」の違いによる。
 ある美術雑誌が「凄腕」としてハイパーリアリズムを特集していたが、作家本人は、そうした素人を驚かせるような「視覚の驚き」を意図し、マティエールを殺し、カラー写真を貼り付けたような絵に近づけば近づくほど「個」を失っていくということに気づいているのだろうか?勿論、「個すらも無化する」という、冷徹なハイパーリアリズムも存在するが、それらは例えばそういう形でコンテンポラリーなメッセージ性を有しているなど別の芸術的意義があるものである。しかしそれらはそこまで徹しているわけでもないし、勿論先に述べた「個」の造形の根源から骨組み肉付けされるような骨太の古典主義的リアリズムとも違う。
 そういうものの行き着く先きは目に見えている。テクノロジーとの高からぬ次元の戦いである。昨今、テクノロジー側からの「リアリズム開発」例は枚挙に暇ない。映像の世界ではコンピューター・グラフィックス(C G)、3Dなど「ビックリもの」が席巻し、二次元造形世界においてもデジタル・アート、描画ソフトは隆盛を極め、それどころかHDR機能と呼ばれる、デジカメ写真を絵画的タッチに変えるものまで現れている。この辺は以下の既出文を援用する。
≪…この手練手管や転写作業は、その限りにおいては、「自我」を介さない、絵画の意義を予め喪失したものである。これは、モティーフと通い合う美意識も、感情や造形思想を投影させる余地も、自らの造形感覚で解釈し組み立てる手続きも、素材と関係した真の造形技術も、何も働かない、ただの子供じみた時間つぶし作業であり、もとより絵画ではない。≫
 ともかくもその複写やレタッチに係る機能は「高度」である。そのうち実際に絵具を使っての「コンピューター制御」による「色づけ」、「トーン付け」もできるようになるかもしれない。しかし上記「自我」を介さないそれは、どこまで行っても本質的には「疑似体験(シュミレーション)」たる紛い物である。そういう時、「表象リアリズム」が「自らの手による」こと以外にはそれらに対峙することが出来ないとすれば、それは他に余り有る絵画芸術としての意義に比し余りに脆弱であろう。。
 問題はその表象リアリズムだけに限ったことではない。昨今、各種公募展など上位成績作品に見られる「創造具象」(この意味既出)は、確かにそれなりに達者な「絵づくり」はあるが、形やスタイルが先行し、縷々述べたような、一つのモティーフやテーマにじっくり対峙し、掘り下げ、あるいは一歩も引かないと言うような、骨太の造形性が見られないように思われる。本来そういう形で「個」を主張したいのだろうが、逆にそういう形で類型を成し、「一発花火」で終わり、作家個人の名前が記憶されることもない。加えて先に述べた「集団性」の現状もあり、特定画家が美術史に名を刻むと言うようなことはこれからはなくなるだろう。
 そんな中、鴻鵠の志をもって自分自身を見失わず、自分の理想やテーマを希求し、より高い絵画的価値に連なるべく切磋琢磨すれば、少なくても悔いのない充実した人生が送れると信ずるのである。
終わり)
Ψ筆者作 「白い岩」 P20 油彩
\¤\᡼\¸ 1
 
追記 芸術は精神の貧しい者には創れない、語れない