イメージ 1Ψ筆者作「廃園の青いバラ」
          F20 油彩  
 
 古典主義においてはデッサンの狂いや調子の「飛び」は致命的である。件の造形アカデミズムに一部でも破調、破綻があると、たちどころにフォルムの硬さ、色彩の無さ、画面の暗さ、活気の無さが目立ってしまう。色彩や「絵づくり」でごまかしが利かないからだ。「オール・オア・ナッシング」である。これが古典主義の怖さだ。勿論諸々のスローガンや能書きカバーできるものではない。
  ところで、具象絵画を大別すると、「人物画」、「風景画」、「静物画」、「イメージ画」(因みに上掲拙作「廃園の青いバラ」はその四要素を総て含むことを意図したものである)、それと昨今公募展などでは主流となった、「野心的」造形性に伴いそれらの写実性、描写性が後退する「創造具象」(便宜上そう呼ぶことにする)などとなる。
 このうち写実的表現性、描写性を志向する人物、風景、静物についても、古典主義ほどの厳格さは求められず、また望むべくもないが、前述の「造形アカデミズム」が相応に具備されなければ、究極の目的である「絵画的価値」に結びつくことはできない。勿論絵画的価値は総て描写的である必要はないが、例えば一層自由奔放な絵も、構成、フォルム、色彩のバランス、素材やマティエール等絵づくり上の確かさ、諸々の表現性やオリジナリティー等それなりにサマになって別の絵画的価値に連ならなくてはならない。それはアカデミズムのような体系化されたものもないし、つかみどころのないと言う意味ではむしろこちらの方が難しいとも言える。それは造形感覚、色感等、いわゆる「才能」と呼ばれるものが多く関わって来るものであるが、例えば有効なデフォルメとただのデッサンの狂いの違いは正確なフォルムの把握能力の違いによるし、色調やヴァルールのバランスなくして快いタブローとしては受け止められない。いずれにしろ絵画的価値とは「ものは言いよう」ではどうにもならない。個性だ感性だ創造の自由だというのは相当の造形性が確保されてから先の話である。
 人物画を例に話をアカデミズムに戻せば、頭は首を介し、体とつながっている。したがって体の向き、角度、ひねり具合、体との比率により頭のフォルムが決まる。その体は胴体、手足それぞれの比率を持つ。目鼻の大きさや形もこのような手順から決まってくる。これを、いくら髪の毛の一本、口や鼻のディテールを追いかけても、扁平な「お面」では顔にならない。この「風景画版」は前述≪≫内で述べたが、こうした大所高所の骨組みに破綻があるものは一部が良くても作品として評価されるということはない。
 これらのことは、絵画であることを主張するなら、ベテランからビギナー、専門家、趣味、その取り組むポジションは関係ない。したがって、レクチャーする側もその描き手の資質、作品傾向を的確に判断し、それにそったアドヴァイスが必要である。自由な画風に造形アカデミズムをごり押ししても無駄である。反面、モティーフと正対し、腰を据えてその描写に造形意義を求めようとする人に、「個性」だ「感性」だと過剰な主情主義を煽っても逆効果である。ネット世界においても自己満足、暇つぶし、遊び半分ではなく、少しでも多くの絵画的価値を希求し真面目に絵画を勉強しようとする人は多い。語るなら語る方も相応の知識や経験が必要である。
 ところで、そうした道理を無視し、体系的造形修行の経験どころか、まともな油彩タブローもほとんど描いたことのない者が、絵画に取り組む姿勢や造形の骨組みがまるで出来ていない者に、枝葉末節な手練手管や生半可な技術論を説くという「挑戦的な」現実がネットの一部にあった。本人らに帰着する不利益の如何には関知しないが、事実認識の誤謬、不備と思われるものは看過すべきではないので、この辺の記述、とりわけ技法などについてはそういう点の配慮も心がけた。。 
 さて、先の古典主義絵画は「油彩」という新たな素材を得て一層の展開を見せた。美術史上の画家といえば「油絵描き」と言えるほど、その重厚さ、優雅さ、味わい等は他の素材の追随を許さない。「美術史」と「造形史」の決定的違いは、後者が「素材」と関連してに進んできたということにあるが、造形史のほとんどは600余年にわたる油彩の造形的展開の歴史といってよいというのがその素材価値の証左である。
    (つづく)