
Ψ筆者作 「金色の果実」 F4 油彩
この「美術史」と「造形史」の距離について更に言及する。
印象派前の造形傾向をここでは大雑把に「古典主義」と概念する。その古典主義絵画は、壁画やイコンを経て、ルネッサンス前のジョットやシモーネ・マルティーニ辺りを仮に本格的なものの始まりとして、宗教、政治、経済、科学、哲学、思想、、国、地域等諸々の外部世界との関係やテーマ、モティーフ、画家の造形思想の異同もあり、印象派直前の写実主義やバルビゾン派に至るまで、美術史上は数多の流派、傾向、主義、主張に分類される。しかしそれにもかかわらず、初期のキリスト教の教義やエピソードに係る象徴的造形を除き、「造形史」的視点に立てばそれらは概ね一つのものとして括られるのである。
この括りの体系が「造形アカデミズム」である。世の森羅万象、宗教、神話にわたるすべてのモティーフを、絵画芸術という二次元平面上の価値創出のために同一の「手続き」を以てする。
この造形アカデミズムは必然「リアリズム」に繋がるがこの意義を最も遅れて現れた風景画のそれに例をとって、既出の記述を援用して述べる。
≪ 自然の美しさ、生命感、大らかさ、重厚さ、瑞々しさ、詩情、静謐さ、寂寥感、冷涼感、荒々しさ、季節感、時間的概念、温度、湿度、生活感、これらに投影される画家の資質や嗜好、思想、情緒性、正に限りないテーマが(風景画には)内在している。リアリズムにあってはこれらの把握のためには、遠近感、広がり、奥行き、森や木立や雲の質感、その重さ軽さ、空の高さ、その透明感、空気感、水の質感、その透明感、光の処理、色彩、壁や石の硬質感等の的確な表現性が求められる。そのための方法論として構成、フォルム、色彩、トーン(調子)、ヴァルール、立体感、量感、質感、マティエールなどの処理の問題、そのベースとしての「素材論」、その素材をこなすための、あるいは効果的な展開のための「技術論」がある。≫
上記青字の部分は古典主義絵画というより今日に至るまでの絵画芸術全般に係る造形の基楚というべきであるが、その後の造形性の変遷に伴う造形的価値観の多様性に鑑みて敢えて「造形アカデミズム」というべき概念としてとらえる。
ともかく、ルネッサンス前から印象派前までの古典主義絵画は総て、人物画、風景画、静物画、イメージ・物語画を問わずこの造形要素を基本としていた。ただ気を付けるべきは、上記中の「色彩」、「マティエール」は古典主義では別扱いとされていたということである。特に色彩は重要な要素ではあるがそれ自体扱いは難渋であるし、それ以外のものの厳格な把握のためには先ずはこれを制作手順上劣後させたほうが合理的という考え方による。今日にまで至る基礎中の基礎の造形訓練である石膏デッサンなどはこの考え方に基づく。またグリザイユ、カマイユ、ヴェルダイユなどのモノトーン画法も同様な考え方による合理的「分離画法」である。
簡単に古典主義と言ったが、特にリアリズムを希求するものにあってはそれは半端なものではない。上記造形要素の厳格な把握、表現が求められる。いつもの挙げる例で言うなら、例えば皮膚の下に流れる血液は緑色に見える。だから本当に緑色を下層に仕込む。ヴェルダイユとは緑色のモノトーン画法である。皮膚の色も単一ではない。本当に下に血液が流れている薄い層として描かれる。
立体感だけなら雲にもある。しかし雲は重くない。風船でできた人型、中は空洞のマネキン、五臓六腑が詰まった本当の人間、これらを描き分ける技術が求められる。量感の把握である。ガラス、金属、毛皮、絹、木綿の描き分け、これらは質感の表現。
ともかく、「ボカシ」のテクニック一つとっても、一体どのようにしてあのようなことができるのだろうかと舌を巻く。因みにモナリザのトーンは「超ミクロの点」の集合という新説を唱え証明を試みたヨーロッパ人画家がいるが、もしそうだとすると印刷の網点(あみてん)、PC画像の「画素」の原理に他ならず、500年も前に現代の色彩科学の原理があったといえる。少なくてもスーラ、シニャック等「新印象派」の「点描」はこれである。
やがて「造形史」はその素材を引き継ぎつつ革命的展開を迎える。印象派の登場である。何故革命的かというと、数百年にわたりそれが当たり前と思われた、前述したような、古典主義の統一的アカデミズム体系の根幹が崩れたからである。あれほど厳格だった、フォルム、トーン等に代わり「色彩」が全面に出る。色彩の豊饒の中に厳格なフォルムは溶解していく。透視図法(パースペクティヴ)、黄金分割、解剖学など古典主義の科学的造形体系は後退し、より純粋な人間的な感覚、視覚、造形精神が優先される。「色彩遠近法」(近景を茶、中景を緑、遠景を青で描く風景画法)に代わり、「大気(空気)遠近法」が導入され、陰影や明暗対比など光の法則に忠実であった色彩は、太陽光線のスペクトルを反映したものとなる。
これはルノワール、モネなどにおける色彩、セザンヌにおける構成、フォルムなど、個別の造形要素固有の生命の解放へと向かい、溶解やデフォルメは一層進みやがて20世紀初頭の、フォーヴ、キューヴ等の百花繚乱をへて完全に事象固有のフォルムが姿を消す抽象絵画の出現へとつながる。
例えば印象派の意義とは古典主義ヘの「アンチテーゼ」、言い換えると古典主義あったればこそその意義があり、同様に、20世紀絵画は印象派あったればこそ、コンテンポラリーはそれまでの流れあったればこそ、それが常態化してそのアンチテーゼの部分がいちいち語られなくなった、そう考えられる。
つまりこれらの流れは、画家がそれぞれの造形要素、あるいは油彩という素材の可能性を、観念ではなく、身をもって追求していった結果の必然性のある流れであり、自ら造形体験あるもの、すなわち自らの創造行為を「造形史」的にとらえる者には実感として体系化されるものである。
例えばよく聞く、「絵画は技術でなく内容」などというのは当たり前の話。チューヴェから出したばかりの色が綺麗なのも当たり前。素材やマティエール自体は絵画ではない。古典主義など美術史的流派を分析してどれに当たるかという観念的作業も意味はない。
自らに生きた造形史を有する者は、この辺の無駄な問いかけはしないだろう。すべて「絵画的価値」に優先するものはない。
(つづく)