
Ψ筆者作「アトリエの主人公たち」 F80 油彩(部分)
佐伯祐三に因むエピソードで、ヴラマンクによる「このアカデミズム!」の一喝は広く知られている。一般にそのセンセーショナルな言葉から、「≪フォーヴの巨匠≫であるヴラマンクの啓示によるその後の佐伯芸術の開眼」という脈絡で捉えられがちだが、事はそれほど単純ではない。
そもそもヴラマンクと師弟関係の実体にあったのは佐伯ではなく二人の面会を仲介した里見勝蔵である。里見はヴラマンクによりその画業が決定づけられ、本人の言によれば生涯その薫陶域の中で苦悩した。そして、ヴラマンクが里見、佐伯の双方に特に強調したのは、その「アンチアカデミズム」より、「物質感」と「固有色」という、その言葉の限りでは非常にアカデミックな造形概念の方であった。佐伯も、その後の画業にも影響したのは、この二つの方であり、それは、その後一度帰国して「1930年協会」展の審査に当たった際の、佐伯による他者作品批評に明らかであるし、何より佐伯絵画に現れたパリの街の壁の硬質なマティエールにもそれは生きている。ともかく佐伯は里見と違い、これも本人の言によれば「教えられた「物質感」ははずさないが、今はヴラマンクではない…」と早々とヴラマンクを抜け、ユトリロやゴッホを経て独自の画境に至ったのである。
そしてなにより、佐伯と会った1924年当時のヴラマンク自身もすでに「フォーヴ」は遥か昔、セザンヌ傾倒時代を経て無彩色を基調とした独自の「古典主義」に入っていた。
佐伯がヴラマンクに見せ、「このアカデミズム!」の洗礼を受けた作品そのものは、里見に言わせれば出来の良い裸婦像だったようだが現存はしないので確認のしようがないが、その同じ年にパリのアカデーミーで描いた裸婦像から想像すれば、セザンヌの影響を宿す、手堅い印象派風のものだったと推定され、古典主義的な意味のアカデミック絵画ではない。
フランス語の辞書を開けば、academiqueに{美}(美術用語)として「型にはまった」とあり、こちらの意味の方が近いようだ。印象派は当時既に、それまでの古典主義(これは本来の)に代位し、造形潮流の中でその主流たる地位を築いていたが、先に述べた「新古典主義」に立っていたヴラマンクには、そういう既成の価値体系の上に安易に乗ったような造形姿勢そのものが「アカデミック=型にはまった」と見えたのであろう。
つまり、「アカデミズム」と「フォーヴ」という美術史的概念の対立を迂闊に適用しては真実は語れないということである。後に佐伯は「ヴラマンクの言ったアンチアカデミズムの意味がわかった、≪個性≫ということでしょう!」と語っている。そもそもこの「個性」も、我が常套句流に言えば、「ブタが空を飛ぶ」ようなものではなく、「百万有りといえども我行かん」という精神の有り様を言うのではあるまいか?例えば、自由奔放な「絵づくり」がそういう形での類型を成す時、徹底した古典主義は十分に個性的なのである。ヴラマンクにフォーヴの名残りあるとすればそういう精神の有り様にあると思える。
いずれにしろ佐伯は、「アカデミズム」を否定した。正確に言えば「有効に否定できた」のである。
実際のところ佐伯は、中学時代の、「夜汽車」の赤松麟作の画塾に始まり、川端画学校,東京美術学校、パリの「アカデミー・ド・ラ・グラン・ド・ショミエール」と、実に四つもの「アカデミー」で造形の基礎を学んでおり、川端、美校では、本邦アカデミズムの始祖黒田清輝の「外光派」の流れを汲む、黒田の弟分藤島武二の指導を受けたが、そのデッサンの成績は抜群であったという。
こうした、本来のアカデミズムに真正面から向き合い、造形の本道に切磋琢磨し、かつ、初期の彼の作品群に顕著なように印象派的造形も身をもって経験していたからこそ有効に否定できたのである。もしこの流れを体得していなかったら彼はヴラマンクの言うことすら理解できなかっただろう。
こうした、本来のアカデミズムに真正面から向き合い、造形の本道に切磋琢磨し、かつ、初期の彼の作品群に顕著なように印象派的造形も身をもって経験していたからこそ有効に否定できたのである。もしこの流れを体得していなかったら彼はヴラマンクの言うことすら理解できなかっただろう。
例えば新しいものを創るには古いものを学ばなければならない。真の個性を主張するには類型も読み取らなければならない。既存のものを知らずして、どうしてこれが新しいもの、これが独自のものと主張できるだろうか?それを論理や観念ではなく体験として行うのである。有効とはそういう意味である。
ところで美術史上の「流派」や「主義」は画家たちがその造形思想を根拠に主体的に結成し名づけたものは少数で、かなりが後代、学研畑や評論畑,、美術ジャーナリスト等周辺が便宜的に名づけ、それが美術史上に定着したというものである。しかし先の佐伯のエピソード一つとっても、画家が一つの自らの画境に至るまでは複雑な回路を持つ。というより実作を行う画家自身は、その意識の有無を問わず、美術史とはもう一つ違う、生きた「造形史」の中で自らの作品を位置づけているものなのである。(つづく)