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Ψ 筆者作 「青いバラシリーズ」 F0  油彩 
 
 前述の自己開発ある時、普通その過程で世の森羅万象に係る「思想」を生む。その思想とは与えられるものではなく自ら構築し信じる価値観である。政治家や法律家の思想は、民主主義や言論自由など、全体性の中で組み立てられるものであるが、一個の人間として思い、指標とすべきそれが一元的であるのは当然で、それがいくつもあったり、他者のものにも寛容であるという方がおかしい。古今東西、文化・芸術の歴史はそのようなもの同士のぶつかり合いの中から生まれたものなのである。。何かの場で、もし反対なら正々堂々自らの思想を以って対峙すればよい。それができない「自己保守」は、履き違えた「自由」を主張する。自由を主張するなら、そういう人間の思想も自由であるはずだがその自由は認めない。その滑稽な自己矛盾にも気づかない。趣味的スローガンや自己と温度差のない現実だけを受け入れるという姿勢あるのみである。どんな程度の悪いものであっても、自分を認知するもだけが味方であり、認めないもの総て敵として姑息、卑劣な人格攻撃にさえ出る。あるいは自ら積極的に問題提起するわけでもなく、思想や創造的自己を表示するということもできずに気に食わないものにだけ足を引っ張ろうとする。
 繰り返すがマスメディアや既成文化圏には数多の問題と限界がある。したがって、それらに代わり、ネット社会に独立した文化圏としての意義と主体性を求めると言うのは時代の流れである。そういう流れにおいて、「文化・芸術」カテゴが内容の充実とレベルの向上をめざすならば、「趣味・教養・娯楽」的側面を併せ持つとしても、「自我保守」をベースとしたそうしたヴァーチャルは排除さるべきであろう。その蔓延により本来の意義や理想が失われては元も子もない。
 
 そもそもどんな細菌類でも下等生物でも特定の環境で永く生存出来ていると言うのはその生存状況に「満足」しているからである。その一部がいっそうの理想的環境順応をもとめ「進化」を図る。総ての生物、すなわち人類の歴史もそのように進歩してきたのである。言い換えれば満足か不満足か、停滞か進歩かは満足するその「満足」のレベル、もっと言うならその満足に通う「知性」の質とレベルによる。
 例えば為政者にとって自らに都合よく国家を維持管理するには、その国民(くにたみ)を維持管理しやすいように持っていく必要がある。これは為政者のみならず官僚は官僚、産業界は産業界、マスコミはマスコミ、それぞれもその利益に適うように国民の意識をもっていくよう努める。そういう意味ではこの国の民は誠に管理され易い従順さがあった。「お上」の意思には逆らわず、権威や伝統を敬い、話題や流行が提供されると他愛なく群がり、世の仕組み制度、因習等にはいかにうまくそれに適応、対応するかを考えることはあっても、それ自体を疑い、否定するしようとは思わなかった。
 スローガンは数多あった。明治期の「富国強兵」、「殖産興業」にはじまりやがて「八紘一宇」、「滅私奉公」、芸術も「彩管報国」となり、切羽詰って「鬼畜米英」、「一億玉砕」」となっても、そのスローガンを信じ、それに従い、反対するものは「非国民」とすら呼んだのでる。しかし、その「鬼畜米英」で数多の人間を戦場に散らせながら、敗戦後の「日米同盟関係は永遠なり」との世界史に例のないような御都合主義的大転換にはほとんど口を閉ざす。
  ともかく、政治家は国民に≪豊かな物質、便利な暮らし、楽しい文化≫を与え、その不満や批判精神を骨抜きにし、メディアや企業は情報操作や世論誘導で自らの利益に繋がれば一応の成功である。これが現下の保守的土壌である。しかし、そのような外部から与えられるものとは、前述した通り、与える側の都合の良いもの、乃至は利益に結びつくものであり、それを迂闊に信じればとんでもない方向に持って行かされる可能性のあるものであり、世に数多の不合理ある中、知性、感受性、創造力等豊かな人間が「満足」のレベルをそこに据えるはずのない。逆に言えばそれらが貧困なものが、そうすることが楽である故に、無様に満足、保守するものである。
 その鮮やかな証左が今回の大震災・原発をめぐる「総保守翼賛体制」の右往左往である。前回の記事と重複する部分は避けるが、原発で明らかとなったのは「天下り」、「産学協同」、「ことなかれ報道」等で、原発をめぐり政・官・業・学・マスコミが総て一体であり、ことの当事者であるということである。それは原発の現況、放射線汚染の拡大に関し真実が知らされないということのみならず、東電等電力会社の「地域独占」により代替エネルギーによる電力供給が阻まれると言うこと、東電の「補償」は電力料金の値上げにはねかえるということ、あるいは増税等、あい関連して末端の国民的不利益に繋がるだろう。 
 (つづく)