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Ψ筆者作 青いバラシリーズより  FO~F4  油彩
 
  以前、ある末期的病に臥す人を見舞った家族が帰り際に「がんばって!」と言ったら「もうがんばれない!」と怒ったように言われ、返す言葉がなかったと言う新聞記事を読んだことがある。あるいは鬱病などのある種の病気にはがんばれなどという励ましの言葉は逆効果だと言う話を聞いたことがある。
 今「がんばれ日本、がんばれ東北」とか「自分ができることをしよう」とか、支援、励まし、連帯等そういう方向の「精神論」に訴える言辞が多く目立つ。
  もちろん未曾有の甚大な被害をもたらしたこの震災から復興を図らなければならないので、国や地域、政治、経済等社会性においてそれは、必要であり結構なことなのだが、正直個人レベルにおいて、家族を津波に飲まれ、家を失い、人生の総てを奪われたような、深い悲哀と絶望にある人には「がんばれ!」などという言葉がどれほど届くだろうか疑問に思う。
 そういう人の中には、安直に言われる「がんばれ」と言う言葉に、「今更何をがんばれと言うんだ!」と怒鳴り返したくなる人もいるのではないか?そうした配慮もなく、安易に画一的にその言葉だけで括ろうとするならこれほど無神経で時に残酷なことはないだろう。
 ではどうしたよいか?何もできない!そういうことを認識しておくこと以外になにもできない。
 誰でもいつか深い悲哀と絶望に向き合わなければならない。やがてそれは諦念へと変わり、その絶望や諦念を突き抜けた、莫とした透明な時空の中で自我の「原存在」と向き合う、人生を考える、自分が突然そういう状況におかれたら?準備はできているだろうか?そういう思いを共有することしかできない。こういう世界に入り込めるのは宗教以外には芸術しかない。今の芸術・文化にそういう力を有するものがあるだろうか?そういうことも考えさせられる。
 ともかく、これからPTSDや鬱病、自殺者が増えるかもしれない。「がんばれコール」ばかりではどうにもならないだろう。
 つでいにいうなら、スポーツ選手や芸能人やマスコミが、その何某かの行為につき、大した繋がりも必然性もないのに、「被災地に捧げる」、とか「元気を与えたい」とかの言葉をつかっているが、いささか飽食気味。そうしたことは受け取る側の被災者が決めることだ。あまり言い過ぎると安っぽく押し付けがましい。 
 
 ともかく今日本は戦後経験したことがない「国難」に直面しているのは確かだ。急速に確かに震災と原発事故の影響は広がっていくだろう。「大本営発表」や「事なかれ報道」や「扇情キャンペーン」等に流され煽られるのは愚の骨頂である。
 
※ 当記事の初稿をアップした直後の12日、政府は事故レベルをチェルノブイリと同じ最悪の≪レベル7≫に引き上げた。国際的な諸諸の影響を考えるると、これはなんとしても避けたかったはずであろうが、今この時期に上げざるを得なかったのは何故か?事態が良い方向に向かっているのなら上げる必要はないはず。今後迎える事実に「予防線」を張ったと思える。
 以下は以前から原発の危険性を主張し続けていた広瀬隆さんの話。重要な判断資料と思うので敢えて三っつほど挙げたが他にもある。