もちろん趣味・嗜好、資質・才能などの現実の問題もあるし、その意味での、真実との出会いや人生の意義や生きがいは必ずしも芸術を通じなくても得られるのであるが、自己表現、自己啓発など「自己実現」の場としても、絵画などの創造行為がその受け皿としては最適であるということは、多くの人が人生の後半そうしたものに関心を持つようになるという事実が物語っている。
絵画でいうなら、見る→感じる→イメージする→表現する→創造するなど各プロセスは、ウソやハッタリの入り込む余地のあろうはずがなく、その意味で純粋な自分自身のものである。諸々の事象、自然、生命も、自分自身の感受性、美意識、造形思想、などにより表現、創造モティーフとして選択されれば、より真実であり純粋なのものとして受け止められるである。冒頭のべた三氏もルソーもグランマも、そうしたモティベーションあればこそである。
その「社会的存在」と「原存在」について、後者は「社会性」の規制を受けないので、当然、より純粋で自由な自我ということになる。しかし自我が自由で純粋であろうとするなら、相応の犠牲と不利益を覚悟しなければならない。人生の早い時期からその道を選択した者はなおさらである。
何故「犠牲」であり「不利益」かというと、芸術が人間社会の、「生産と消費」、「労働と報酬」のメカニズムの外の置かれているいるからである。好きなことやっているのだから生活を保証してやる必要はないというわけである。
古今東西、数多の芸術家は、それが存在し、その創造物があればこそ、虫や動物と違う≪人間社会≫足りうるにも拘わらず、人間社会に報われることのなく、創造・表現の世界で身を削りながら生き、時にそのメティエに殉じ、そうしながらも、ただ芸術の理想と尊厳のため、諸々の自己実現のため、切磋琢磨の責任だけは果たしてきた…という事実は、数多の先達の軌跡に明らかである。
ところで先に芸術は「個」の何たるかの問題と述べたが、絵画の場合それを「なりわい」とせんとするなら、どうしても現実の画壇とか市場というものと関わりをもたなければならない。しかしその画壇や市場も一つの「社会」に他ならない。とりわけ本邦のそれは、世界に類をみない、個が集団に劣後すると言う歪んだ構造にある。この辺の経緯は以下の拙文で述べた。
http://blogs.yahoo.co.jp/asyuranote/61040619.html
繰り返すが、本邦の画壇や市場の「集団性」、権威主義・ヒエラルキー、因習は世界に類のない歪んだ構図である。それは芸術の世界を名乗りながら、否、芸術の世界であるがゆえに余程通常の人間社会より胡散臭く、鼻持ちならなく「社会性」が強いという印象さえ受ける。事実、団体の傾向や流行りもの、徒弟関係や人脈に沿った「社会性」で出来ている絵もしばしば見受けるのである。
「年鑑評価型市場体系」で問われるのは、作品の内容そのものではなく、作品の周りに付着した「看板」や「勲章」であり、買う方もその「有難み」を買うのだ。これは芸術の名において悲しむべきことである!
とするなら、純粋で自由な創造のため、そうした「集団性」に敢えて組しないという生き方もある。これは単に、画家として生きる方法論の選択の問題ではなく、資質の問題であろう。これは言うは易く行うは難し、ただでさえ食えない世界でいっそうの純粋さ自由を求め、その内部の社会性も否定すると言うのだからなおさらである。しかしこれが本来の芸術家の姿であり宿命なのである。
私は画家に限らず音楽や演劇、他のエンターテイメントに生きる若年に類する多くの人間を知っている。彼らもまた豊かではない。彼らが、その道での成功を望み、目指すのは良いし当然である。しかしそのため、彼らが大切にしているものを安売り、切り売りはしないだろう。それを市民的幸福と交換することになったら最初からそれだけのものであったということに他ならない。彼らはそれが自分の原存在を支え、悔いのない人生となることを知っている。彼らの多くが、いくら貧乏しても、今度生まれる時もまた同じことをしたいと思うだろう。生涯のメティエとはそういうものだ。
ところで、ネット世界に斯様な御仁がいた。絵描きはプロとアマがいるらしい。この選別自体、当人の絵画芸術に対する認識の低劣さを語るもの。プロ・アマを言うならその作品の中身を問えばよいのであるが、ともかく、そのプロとは、絵で飯を食い、税金を払っているものだそうだ。とするなら、美術史家は美術史に残る画家の納税状況を調べ直し美術史を書き換えなければならないだろう。自らプロを名乗るには「納税証明」が必要なこととなる。
その御仁は、そろそろ天命を知り、人生だ人間だの意義や本質が見えて来ても良い御年(おんとし)である。そこ期(ご)に至りその程度の卑俗な認識しか持てないことに同情の念禁じえないが、かなりの日本人の品性と本音を吐露しているという意味では正直といってよい。
昨今、お絵かきソフトとかPCモニターや写真等引き写しのメカニック「造形」やコンピュータグラッフィック、3Dなどの「ビックリ」テクノロジーを絵画芸術と玉石混交させる傾向が一部にあるが、この手練手管や転写作業は、その限りにおいては、「自我」を介さない、絵画の意義を予め喪失したものである。これは、モティーフと通い合う美意識も、感情や造形思想を投影させる余地も、自らの造形感覚で解釈し組み立てる手続きも、素材と関係した真の造形技術も、何も働かない、ただの子供じみた時間つぶし作業であり、もとより絵画ではない。
この御仁はその信者である。今更腰を落ち着けて造形の基礎に取り組む時間も自信もない。何が何でもそのスローガンを貫き通さなければならない。ところが絵画芸術での立場からはそんなものは認知されるはずがない。ではどうするか?自分を認めない者の存在を「かたり」だ「もどき」だ言って、根こそぎ否定すればよい。そのためこれも先に述べた人間社会と芸術家の「常識的関係」を持ち出してくるのである。先入観や一面的情報のみで、金や地位を人間の価値判断の基準とする、まことに賎しい卑劣な態度である!こういう賎しい人間は他にもウヨウヨいる。
ともかく、個人が何をやろうと勝手だし、その頑迷さは墓場まで持っていってもらって結構だが、ネット世界に存する、造形をまともに学ぼうとする人を混乱させるデタラメや、絵画芸術や画家全体を卑しめ貶めるものにはそれなりに対処しなければならない。
(つづく)
絵画でいうなら、見る→感じる→イメージする→表現する→創造するなど各プロセスは、ウソやハッタリの入り込む余地のあろうはずがなく、その意味で純粋な自分自身のものである。諸々の事象、自然、生命も、自分自身の感受性、美意識、造形思想、などにより表現、創造モティーフとして選択されれば、より真実であり純粋なのものとして受け止められるである。冒頭のべた三氏もルソーもグランマも、そうしたモティベーションあればこそである。
その「社会的存在」と「原存在」について、後者は「社会性」の規制を受けないので、当然、より純粋で自由な自我ということになる。しかし自我が自由で純粋であろうとするなら、相応の犠牲と不利益を覚悟しなければならない。人生の早い時期からその道を選択した者はなおさらである。
何故「犠牲」であり「不利益」かというと、芸術が人間社会の、「生産と消費」、「労働と報酬」のメカニズムの外の置かれているいるからである。好きなことやっているのだから生活を保証してやる必要はないというわけである。
古今東西、数多の芸術家は、それが存在し、その創造物があればこそ、虫や動物と違う≪人間社会≫足りうるにも拘わらず、人間社会に報われることのなく、創造・表現の世界で身を削りながら生き、時にそのメティエに殉じ、そうしながらも、ただ芸術の理想と尊厳のため、諸々の自己実現のため、切磋琢磨の責任だけは果たしてきた…という事実は、数多の先達の軌跡に明らかである。
ところで先に芸術は「個」の何たるかの問題と述べたが、絵画の場合それを「なりわい」とせんとするなら、どうしても現実の画壇とか市場というものと関わりをもたなければならない。しかしその画壇や市場も一つの「社会」に他ならない。とりわけ本邦のそれは、世界に類をみない、個が集団に劣後すると言う歪んだ構造にある。この辺の経緯は以下の拙文で述べた。
http://blogs.yahoo.co.jp/asyuranote/61040619.html
繰り返すが、本邦の画壇や市場の「集団性」、権威主義・ヒエラルキー、因習は世界に類のない歪んだ構図である。それは芸術の世界を名乗りながら、否、芸術の世界であるがゆえに余程通常の人間社会より胡散臭く、鼻持ちならなく「社会性」が強いという印象さえ受ける。事実、団体の傾向や流行りもの、徒弟関係や人脈に沿った「社会性」で出来ている絵もしばしば見受けるのである。
「年鑑評価型市場体系」で問われるのは、作品の内容そのものではなく、作品の周りに付着した「看板」や「勲章」であり、買う方もその「有難み」を買うのだ。これは芸術の名において悲しむべきことである!
とするなら、純粋で自由な創造のため、そうした「集団性」に敢えて組しないという生き方もある。これは単に、画家として生きる方法論の選択の問題ではなく、資質の問題であろう。これは言うは易く行うは難し、ただでさえ食えない世界でいっそうの純粋さ自由を求め、その内部の社会性も否定すると言うのだからなおさらである。しかしこれが本来の芸術家の姿であり宿命なのである。
私は画家に限らず音楽や演劇、他のエンターテイメントに生きる若年に類する多くの人間を知っている。彼らもまた豊かではない。彼らが、その道での成功を望み、目指すのは良いし当然である。しかしそのため、彼らが大切にしているものを安売り、切り売りはしないだろう。それを市民的幸福と交換することになったら最初からそれだけのものであったということに他ならない。彼らはそれが自分の原存在を支え、悔いのない人生となることを知っている。彼らの多くが、いくら貧乏しても、今度生まれる時もまた同じことをしたいと思うだろう。生涯のメティエとはそういうものだ。
ところで、ネット世界に斯様な御仁がいた。絵描きはプロとアマがいるらしい。この選別自体、当人の絵画芸術に対する認識の低劣さを語るもの。プロ・アマを言うならその作品の中身を問えばよいのであるが、ともかく、そのプロとは、絵で飯を食い、税金を払っているものだそうだ。とするなら、美術史家は美術史に残る画家の納税状況を調べ直し美術史を書き換えなければならないだろう。自らプロを名乗るには「納税証明」が必要なこととなる。
その御仁は、そろそろ天命を知り、人生だ人間だの意義や本質が見えて来ても良い御年(おんとし)である。そこ期(ご)に至りその程度の卑俗な認識しか持てないことに同情の念禁じえないが、かなりの日本人の品性と本音を吐露しているという意味では正直といってよい。
昨今、お絵かきソフトとかPCモニターや写真等引き写しのメカニック「造形」やコンピュータグラッフィック、3Dなどの「ビックリ」テクノロジーを絵画芸術と玉石混交させる傾向が一部にあるが、この手練手管や転写作業は、その限りにおいては、「自我」を介さない、絵画の意義を予め喪失したものである。これは、モティーフと通い合う美意識も、感情や造形思想を投影させる余地も、自らの造形感覚で解釈し組み立てる手続きも、素材と関係した真の造形技術も、何も働かない、ただの子供じみた時間つぶし作業であり、もとより絵画ではない。
この御仁はその信者である。今更腰を落ち着けて造形の基礎に取り組む時間も自信もない。何が何でもそのスローガンを貫き通さなければならない。ところが絵画芸術での立場からはそんなものは認知されるはずがない。ではどうするか?自分を認めない者の存在を「かたり」だ「もどき」だ言って、根こそぎ否定すればよい。そのためこれも先に述べた人間社会と芸術家の「常識的関係」を持ち出してくるのである。先入観や一面的情報のみで、金や地位を人間の価値判断の基準とする、まことに賎しい卑劣な態度である!こういう賎しい人間は他にもウヨウヨいる。
ともかく、個人が何をやろうと勝手だし、その頑迷さは墓場まで持っていってもらって結構だが、ネット世界に存する、造形をまともに学ぼうとする人を混乱させるデタラメや、絵画芸術や画家全体を卑しめ貶めるものにはそれなりに対処しなければならない。
(つづく)