最近身近で三人の画家の経歴を知った。一人は昔私も関係したことがある画廊の経営者だったA氏で、近年市場関係の仕事は辞め画業に専念したそうである。本来は画家志望であり某巨匠にも師事したが「才能が無い」と自覚し、売る方に回った、という本人の言を記憶しているが、やはりその道はあきらめられず実作に戻ったようである。またB氏は美大を中退、長く商業美術に関係していたがこれもやはりタブロー画家として生きるべしとの決意に至ったようである。C氏は油彩ではないが、音楽が趣味であったのでその演者や楽器をモティーフとした独自の創作活動をしている。C氏は近年かなり重篤な病を得たが、その繊細でヴィヴィッドな仕事から、その創作活動が生命活力と密接に関係しているように思える。
いずれも70歳を超えており、この他にも、その質に差異こそあれ、人生の後半に本格的に絵がライフワークとなった人は多い。この辺でいつも思い出すのは、アンリ・ルソーやグランマ・モーゼスである。 ルソーは長いこと税関の役人をし、本格的に絵に専念したのは50歳ごろ、グランマは絵を始めたのは実に75歳を過ぎてから、初個展が80才という遅さであった。
もちろん、絵画とは何も若い頃から画家一本を志し専念して来なけならないというわけではないので、人それぞれいろいろな入り方があって良いが、そういう人たちにとっての絵画に何か特別の意義を感じるのである。それは、「終(つい)の棲家」という言葉があるが、「絵画」に「終の精神の棲家」というべき意義のようなものを見出したというようなものであろう。
そうした、ラジカル(根源的)な自我の存在(これをここでは「原存在」と言う)の在りどころを人生の早いうちに決めていた者を除き、普通は、生活、仕事、家庭など何某かの現実の中での「社会的存在」としての自我を強いられるものである。ところがこの「社会的存在」には限界がある。一つはそれら人間社会には、ウソ、ハッタリ、ゴマカシ、駆け引き、利害関係等不純なものが横溢しているということ。もう一つは、その存在基盤である社会性はいつか必ず奪われていくものであるということである。仕事や社会的立場からはいつかリタイアしなければならず、家族とはいつかは離別する。諸諸の人間関係もどれほどのものが残るだろうか?何よりも自分自身も衰え、消滅していくものなのである。
つまり、金や社会的地位や家族さえも、あるいは豊かな物質も便利なテクノロジーも、メディアが提供する情報や商業主義文化価値も、いざとなったら全く頼りにも救いもならない。
行き場のない中高年やうつ病などは昨今の社会的問題となっているが、その中には、前述のような好ましからざるものに翻弄されたり、社会性を剥ぎ取られた際に自分を見失ったりするなどのことが背景にかなりあるはずである。
まとめると、人間には「原存在」と「社会的存在」の二面的存在があり、後者が失われても確固たる前者があれば自我を見失うということはない、そして、人生の価値とは、この世でいかに多くの純粋さ、真実と出会えるか、いかなる原存在としての自我を確立し、一度きりの人生を悔いのないものとするかにあるのではないかということである。
(つづく)