勿論一方に、旧来からの「リアリズム絵画」というのは厳然として存在する。これは、絵画芸術である以上上記の「真実」を希求するものであるが、違うのはその真実を現実、事実を通じて抽き出そうとするものである。つまり、目的と手段が現象的には一致するのだ。それは、真実追究の一形式であり、時空を超えて生き続けているものである。それは、印象派前の古典主義系絵画と同様の厳格な造形アカデミズムを基礎とするが、古典主義絵画総てが必ずしもリアリズムではないのでここも混同すべきではない。また、繰り返すがそれは芸術の意義に敵うべきものなので、単なる表面的な「事実」の引き写しとも違う。したがって、「写真の登場によりリアリズムの意義は薄れた」などという見解は、真実と事実を混同した、リアリズムの絵画的意義が判っていない見解であるということになる。写真が登場して役目が終わったのは「お手配の人相描き」ぐらいであろう。
ところが厄介なことに、この「事実」、「現実」、「真実」、「写実」は、英訳すれば総て「real」、「realism」という言葉になる。したがって、その限りでは芸術は凡そ「リアリズム」で括られることになるが、縷々述べたように日本語での中身の意義の違いは明らかである。したがって「リアリズム絵画」は、「造形理論的」及び「美術史学的」に定義される、≪方法論として事象の形相を崩さずにそのまま描写すること≫とすべきであろう。かつて映画の世界に「イタリアンリアリズム」と呼ばれる「自転車泥棒」、「鉄道員」などのようなるものがあったが、それは時に汚いもの、好ましからざるものもシリアスに直視したが、絵画は切り取られた限定空間であるので、それらも「美」の支配下におかれるものとなる。。
芸術は自由であるのでリアリズムも自由である。リアリズムは写実主義であるので写実主義、描写主義も自由である。ひとたび描写主義を取るならにそれに徹するのは当たり前。相当の技術的レベルも要求される。それにより本来の「真実」が伝えられ、画家個人の絵画世界が構築されれば良い。リアリズムを主張しながら造形的には半端であるものは古典主義絵画と同様、「オール オア ナッシング」の選別を受ける。
最後に上記に因み、広くリアリズム、とりわけ風景画に関する根強い偏見、誤解に対して一言。
それは、リアリズム→描写主義→事実の引き写し→写真などの援用という図式に象徴される。以下は風景画に係る別拙文の援用である。
≪ 自然の美しさ、生命感、大らかさ、重厚さ、瑞々しさ、詩情、静謐さ、寂寥感、冷涼感、荒々しさ、季節感、時間的概念、温度、湿度、生活感、これらに投影される画家の資質や嗜好、思想、情緒性、正に限りないテーマが(風景画には)内在している。リアリズムにあってはこれらの把握のためには、遠近感、広がり、奥行き、森や木立や雲の質感、その重さ軽さ、空の高さ、その透明感、空気感、水の質感、その透明感、光の処理、色彩、壁や石の硬質感等の的確な表現性が求められる。そのための方法論として構成、フォルム、色彩、トーン(調子)、ヴァルール、立体感、量感、質感、マティエールなど(石膏デッサンはこれらの考え方、訓練に係る、基礎中の基礎である)の処理の問題、そのベースとしての「素材論」、その素材をこなすための、あるいは効果的な展開のための「技術論」がある。≫
風景画やリアリズムを単純に前記図式のような概念で捉えているような御仁は、本腰を入れてそれらにに取り組んだことがないのだろう。それが写真に頼る程度のものではどうにもならないことは経験すればわかる。
ところが厄介なことに、この「事実」、「現実」、「真実」、「写実」は、英訳すれば総て「real」、「realism」という言葉になる。したがって、その限りでは芸術は凡そ「リアリズム」で括られることになるが、縷々述べたように日本語での中身の意義の違いは明らかである。したがって「リアリズム絵画」は、「造形理論的」及び「美術史学的」に定義される、≪方法論として事象の形相を崩さずにそのまま描写すること≫とすべきであろう。かつて映画の世界に「イタリアンリアリズム」と呼ばれる「自転車泥棒」、「鉄道員」などのようなるものがあったが、それは時に汚いもの、好ましからざるものもシリアスに直視したが、絵画は切り取られた限定空間であるので、それらも「美」の支配下におかれるものとなる。。
芸術は自由であるのでリアリズムも自由である。リアリズムは写実主義であるので写実主義、描写主義も自由である。ひとたび描写主義を取るならにそれに徹するのは当たり前。相当の技術的レベルも要求される。それにより本来の「真実」が伝えられ、画家個人の絵画世界が構築されれば良い。リアリズムを主張しながら造形的には半端であるものは古典主義絵画と同様、「オール オア ナッシング」の選別を受ける。
最後に上記に因み、広くリアリズム、とりわけ風景画に関する根強い偏見、誤解に対して一言。
それは、リアリズム→描写主義→事実の引き写し→写真などの援用という図式に象徴される。以下は風景画に係る別拙文の援用である。
≪ 自然の美しさ、生命感、大らかさ、重厚さ、瑞々しさ、詩情、静謐さ、寂寥感、冷涼感、荒々しさ、季節感、時間的概念、温度、湿度、生活感、これらに投影される画家の資質や嗜好、思想、情緒性、正に限りないテーマが(風景画には)内在している。リアリズムにあってはこれらの把握のためには、遠近感、広がり、奥行き、森や木立や雲の質感、その重さ軽さ、空の高さ、その透明感、空気感、水の質感、その透明感、光の処理、色彩、壁や石の硬質感等の的確な表現性が求められる。そのための方法論として構成、フォルム、色彩、トーン(調子)、ヴァルール、立体感、量感、質感、マティエールなど(石膏デッサンはこれらの考え方、訓練に係る、基礎中の基礎である)の処理の問題、そのベースとしての「素材論」、その素材をこなすための、あるいは効果的な展開のための「技術論」がある。≫
風景画やリアリズムを単純に前記図式のような概念で捉えているような御仁は、本腰を入れてそれらにに取り組んだことがないのだろう。それが写真に頼る程度のものではどうにもならないことは経験すればわかる。