画家なら誰でもが絵画芸術とか造形とか言うものに関しては自分なりの姿勢やポジションがあるもので、それは全くの自由であるし、その立場で他者に対して批判的認識を持つというのも必然のこと。むしろ、それは自己の創造に関しての責任のようなもので、いい加減さ、甘さ、優柔不断よりはるかに良い。
そういう良い意味の「自己中心主義」は結構なのであるが,一方で、明らかな誤謬や偏見、認識不足で、絵画の懐の深さ、可能性、展開の幅を認めず、偏狭な価値観に絵画芸術の意義全体を閉じ込めてしまうというのも結局は自分の絵画世界の矮小さを晒すことに他なるまい。
絵画に限らず芸術の意義とは、人間そのものや人間社会、自然や諸々の事象等から、人間の五感や美意識、思考に直接働きかける価値を抽出し、表現し、あるいはそれを創造することにある。その価値とは人間が信じられ、その人生に何某かの意義を与える「真実」である故に価値であり、「美」も当然その真実に含まれる。一方抽き出される元となる、人間も人間社会も自然も諸々の事象もそれ自体はその限りにおいて「事実」である。事実というのは、価値もあるかもしれないが反価値もウソもハッタリも虚飾も総て含んだ「ありのまま」ということである。
つまり、「事実」と「真実」は違う。先ずこの辺の混同が見られる。例えば写真が伝えるものはその限りでは「事実」に過ぎない。したがって写真を転写しただけの絵画が問題となるのは先ずこの辺なのであって、特別芸術的に深い話ではないのだ。
先の芸術の意義に戻ると、人間社会が営まれ始めた太古より今日に至るまで様々の芸術がある。絵画、彫刻、音楽、文学、演劇、映画、工芸、陶芸…目的はそれぞれの意義と機能と技法により先の「真実」を希求、追究することにある。そうでないものはそれ足り得ないということに他ならない。
絵画・彫刻は音や言葉は無いが色彩やフォルムがある。音楽は音はあるが色も形も無い。文学は言葉はあるが音も色もない。これは、「それを感じる」ということとは別問題のハッキリ現れた「機能」の問題である。言い換えれば各芸術はその固有の機能を十分に生かせばよいのだ。「総合芸術」とか「インターメディア」などの試みもないわけではないが、これは逆に固有の機能の妙を失う。
ところで、絵画に「精神性「や「思想」にかかる「表現性」と色彩、フォルム、マティエールなど「絵づくり」に係る「造形性」の二つの側面があるということは再三述べた。この「表現性」が行き過ぎると「文学的」になり、「造形性」が行き過ぎると「工芸品的」になり、ともに絵画としての評価は劣後されることになる。絵画の価値とはあくまでも色や形を生かした「絵画的価値」の成否で問われるべきである。そうでなければ絵画である必要はない。因みに近代洋画の例で言えばゴッホとセザンヌは両傾向のチャンピオンであるが、その価値はあくまでも絵画的なものであり、ゴッホが文学的に、セザンヌが工芸品的に行き過ぎたら供に今日のような評価は受けていないだろう。
(つづく)
そういう良い意味の「自己中心主義」は結構なのであるが,一方で、明らかな誤謬や偏見、認識不足で、絵画の懐の深さ、可能性、展開の幅を認めず、偏狭な価値観に絵画芸術の意義全体を閉じ込めてしまうというのも結局は自分の絵画世界の矮小さを晒すことに他なるまい。
絵画に限らず芸術の意義とは、人間そのものや人間社会、自然や諸々の事象等から、人間の五感や美意識、思考に直接働きかける価値を抽出し、表現し、あるいはそれを創造することにある。その価値とは人間が信じられ、その人生に何某かの意義を与える「真実」である故に価値であり、「美」も当然その真実に含まれる。一方抽き出される元となる、人間も人間社会も自然も諸々の事象もそれ自体はその限りにおいて「事実」である。事実というのは、価値もあるかもしれないが反価値もウソもハッタリも虚飾も総て含んだ「ありのまま」ということである。
つまり、「事実」と「真実」は違う。先ずこの辺の混同が見られる。例えば写真が伝えるものはその限りでは「事実」に過ぎない。したがって写真を転写しただけの絵画が問題となるのは先ずこの辺なのであって、特別芸術的に深い話ではないのだ。
先の芸術の意義に戻ると、人間社会が営まれ始めた太古より今日に至るまで様々の芸術がある。絵画、彫刻、音楽、文学、演劇、映画、工芸、陶芸…目的はそれぞれの意義と機能と技法により先の「真実」を希求、追究することにある。そうでないものはそれ足り得ないということに他ならない。
絵画・彫刻は音や言葉は無いが色彩やフォルムがある。音楽は音はあるが色も形も無い。文学は言葉はあるが音も色もない。これは、「それを感じる」ということとは別問題のハッキリ現れた「機能」の問題である。言い換えれば各芸術はその固有の機能を十分に生かせばよいのだ。「総合芸術」とか「インターメディア」などの試みもないわけではないが、これは逆に固有の機能の妙を失う。
ところで、絵画に「精神性「や「思想」にかかる「表現性」と色彩、フォルム、マティエールなど「絵づくり」に係る「造形性」の二つの側面があるということは再三述べた。この「表現性」が行き過ぎると「文学的」になり、「造形性」が行き過ぎると「工芸品的」になり、ともに絵画としての評価は劣後されることになる。絵画の価値とはあくまでも色や形を生かした「絵画的価値」の成否で問われるべきである。そうでなければ絵画である必要はない。因みに近代洋画の例で言えばゴッホとセザンヌは両傾向のチャンピオンであるが、その価値はあくまでも絵画的なものであり、ゴッホが文学的に、セザンヌが工芸品的に行き過ぎたら供に今日のような評価は受けていないだろう。
(つづく)