当項の最後である。
詩人アンドレ・ブルトンにより「シュール・リアリズム」宣言が為された1924年、本邦洋画史上でも象徴的事件が起った。
佐伯祐三がヴラマンクから「このアカデミズム!」の洗礼を受けたのは正にこの年であった。それだけではない、本邦洋画界の基礎を作ったパイオニアであり、大御所であった黒田清輝が58歳で、大正期のもう一人の「スター」中村彝が37歳で死去したのもこの1924年である。この象徴的、運命的出来事のあまりの偶然に驚く。
ところで、以前NHKで、免疫学者の多田富雄の特集をしていた。彼は学者であると同時に能作家でもあった,彼は晩年脳卒中を患い体の自由と言語を失う。彼が言葉を発するにははコンピューター言語装置を使わなければならなかった。その彼の言葉によれば、彼が能作家としての本当の仕事が出来たのは病気になってからで、元気な時のは趣味だったという。つまり、彼は「死」を自覚し自己の限界を知った時から本当のものが見え、かつ要らないものを捨てることができた、だから本当の仕事が純粋にできたというのである。
これを聞いて思い出したのは件の中村彝のことである。彼は早くから結核を患い、画家として、もの心ついた時から死に直面していた。つまり、彼の仕事は「生」の側にあったのではなくいつも「生」と「死」の中間で為されたのである。多田の考えを適用すれば彝もまた純粋な仕事が出来る「幸福な」立場にあった。
彼は「尊皇攘夷」の志篤い水戸藩の士族の家に生まれ、兄も「エリート軍人」、自身も軍人を志し陸軍幼年学校に入る。明治以降の国家主義の大義の中では個人の人格・尊厳など他愛なく劣後するという環境の中で育ったのである。やがて長兄は戦死、次兄も教練の事故がもとで早世、胸の病で幼年学校も退校となり、天涯孤独と病の中、「生」への執着は強まり、個々の人間の尊厳に覚醒する。
やがて、キリスト教に接近したり、中原悌二郎、鶴田吾郎ら「中村屋サロン」の芸術家たちと交流を持ったり、芸術家として人間として生きるべき価値観の模索をするという、同時代の意識ある誰もが行うことに加え、彼にはそれ以前に生存のためのあらゆる努力をしなければならないという立場があった。結核に良いとされることは、時に民間療法や怪しげな加持祈祷に類することまで片っ端から試みる。反面「捨てるべき要らないもの」は多く人間や人間社会にあった。諸々の制度や仕組み、価値感も所詮いじらしいくらい他愛ない人間の業の所産である。「進歩的文化人」相馬愛蔵、黒光夫妻でさえ結局は、貧しい、病気の画家である故自分と娘との結婚に反対したではないか!
帝展の表彰状は「電球の傘」に使われた。描いては寝つき、起きてはまた描いた。エロシェンコはそのような状況で描かれ彼はそれを帝展の会場に見に行くことさえ出来なかった。
肺のラッセル音は聴診器を介さなくても聞こえるようになって来ていたという。そしてついに彼は「余命一週間」を宣告される。その絶望の中一人の名医に出遭う。遠藤繁清。遠藤が彝のエロシェンコを知らなかったら、彝の主治医となることはなかった。余命一週間は3年に延びる。彝と佐伯祐三の共通の友人曽宮一念は、その後渡仏する遠藤医師に佐伯を診てもらうよう頼むがこれは果たせなかった。
その後「中村彝会」のメンバーとなるような友人、洋行できなかった彝に本物のシスレーを模写させた銀行家今村繁三、今村と供にアトリエ資金を援助した佐渡人脈の洲崎善郎、既出荏原製作所の酒井億尋などの支援者にも恵まれたが、1924年クリスマスの日ついに力尽きる。最期を看取った鶴田の言によれば恩讐を超え、全力を尽くしたたその顔はキリストのようであったそうである。
そのわずか10年前、第一世界大戦の戦端が開かれた年の1914年、既に晩期にさしかかったモネは睡蓮の連作により、フォルムの色彩への溶解をいっそう進ませた。それは印象派の完成であると同時に終焉でもあり、それと交差するかのごとく、マルセル・デュシャンの「レディーメイド」の試みやモンドリアンの「新造形主義」など早くも次代のシュールやアブストラクトの萌芽が見られたのもこの年である。
激動の時代があり、内外の芸術に目まぐるしい動きがあった。この近辺、本邦では彝、青木繁、佐伯祐三、前田寛治、岸田劉生、中原悌二郎、荻原守衛、村山槐多、関根正二…綺羅星の如き才能がみな20代、30代で早世している。今日、その作品以前に、純粋で、直向に芸術の価値と可能性を模索した彼らの人生に感銘を受ける。
抽象であれ、具象であれ、肝要なのは創造に打ち込む姿勢と「個」を貫くエネルギー、それと何より、その所産たる力のある作品だろう。その後のことはどうとでも言える。
詩人アンドレ・ブルトンにより「シュール・リアリズム」宣言が為された1924年、本邦洋画史上でも象徴的事件が起った。
佐伯祐三がヴラマンクから「このアカデミズム!」の洗礼を受けたのは正にこの年であった。それだけではない、本邦洋画界の基礎を作ったパイオニアであり、大御所であった黒田清輝が58歳で、大正期のもう一人の「スター」中村彝が37歳で死去したのもこの1924年である。この象徴的、運命的出来事のあまりの偶然に驚く。
ところで、以前NHKで、免疫学者の多田富雄の特集をしていた。彼は学者であると同時に能作家でもあった,彼は晩年脳卒中を患い体の自由と言語を失う。彼が言葉を発するにははコンピューター言語装置を使わなければならなかった。その彼の言葉によれば、彼が能作家としての本当の仕事が出来たのは病気になってからで、元気な時のは趣味だったという。つまり、彼は「死」を自覚し自己の限界を知った時から本当のものが見え、かつ要らないものを捨てることができた、だから本当の仕事が純粋にできたというのである。
これを聞いて思い出したのは件の中村彝のことである。彼は早くから結核を患い、画家として、もの心ついた時から死に直面していた。つまり、彼の仕事は「生」の側にあったのではなくいつも「生」と「死」の中間で為されたのである。多田の考えを適用すれば彝もまた純粋な仕事が出来る「幸福な」立場にあった。
彼は「尊皇攘夷」の志篤い水戸藩の士族の家に生まれ、兄も「エリート軍人」、自身も軍人を志し陸軍幼年学校に入る。明治以降の国家主義の大義の中では個人の人格・尊厳など他愛なく劣後するという環境の中で育ったのである。やがて長兄は戦死、次兄も教練の事故がもとで早世、胸の病で幼年学校も退校となり、天涯孤独と病の中、「生」への執着は強まり、個々の人間の尊厳に覚醒する。
やがて、キリスト教に接近したり、中原悌二郎、鶴田吾郎ら「中村屋サロン」の芸術家たちと交流を持ったり、芸術家として人間として生きるべき価値観の模索をするという、同時代の意識ある誰もが行うことに加え、彼にはそれ以前に生存のためのあらゆる努力をしなければならないという立場があった。結核に良いとされることは、時に民間療法や怪しげな加持祈祷に類することまで片っ端から試みる。反面「捨てるべき要らないもの」は多く人間や人間社会にあった。諸々の制度や仕組み、価値感も所詮いじらしいくらい他愛ない人間の業の所産である。「進歩的文化人」相馬愛蔵、黒光夫妻でさえ結局は、貧しい、病気の画家である故自分と娘との結婚に反対したではないか!
帝展の表彰状は「電球の傘」に使われた。描いては寝つき、起きてはまた描いた。エロシェンコはそのような状況で描かれ彼はそれを帝展の会場に見に行くことさえ出来なかった。
肺のラッセル音は聴診器を介さなくても聞こえるようになって来ていたという。そしてついに彼は「余命一週間」を宣告される。その絶望の中一人の名医に出遭う。遠藤繁清。遠藤が彝のエロシェンコを知らなかったら、彝の主治医となることはなかった。余命一週間は3年に延びる。彝と佐伯祐三の共通の友人曽宮一念は、その後渡仏する遠藤医師に佐伯を診てもらうよう頼むがこれは果たせなかった。
その後「中村彝会」のメンバーとなるような友人、洋行できなかった彝に本物のシスレーを模写させた銀行家今村繁三、今村と供にアトリエ資金を援助した佐渡人脈の洲崎善郎、既出荏原製作所の酒井億尋などの支援者にも恵まれたが、1924年クリスマスの日ついに力尽きる。最期を看取った鶴田の言によれば恩讐を超え、全力を尽くしたたその顔はキリストのようであったそうである。
そのわずか10年前、第一世界大戦の戦端が開かれた年の1914年、既に晩期にさしかかったモネは睡蓮の連作により、フォルムの色彩への溶解をいっそう進ませた。それは印象派の完成であると同時に終焉でもあり、それと交差するかのごとく、マルセル・デュシャンの「レディーメイド」の試みやモンドリアンの「新造形主義」など早くも次代のシュールやアブストラクトの萌芽が見られたのもこの年である。
激動の時代があり、内外の芸術に目まぐるしい動きがあった。この近辺、本邦では彝、青木繁、佐伯祐三、前田寛治、岸田劉生、中原悌二郎、荻原守衛、村山槐多、関根正二…綺羅星の如き才能がみな20代、30代で早世している。今日、その作品以前に、純粋で、直向に芸術の価値と可能性を模索した彼らの人生に感銘を受ける。
抽象であれ、具象であれ、肝要なのは創造に打ち込む姿勢と「個」を貫くエネルギー、それと何より、その所産たる力のある作品だろう。その後のことはどうとでも言える。