表題のテーマについて、偏見や誤謬が蔓延するのは、具象の立場からも好ましくないので事実経過について一言。
先ず「抽象」とはある日突然美術史上の現れたものではなく、先達が絵画の可能性と芸術的価値を追求していった過程で必然的に至った一「造形様式」であるということ。必然的とは現れるべくして現れるということである。印象派では色彩の中にフォルムが溶解していったが、その溶解はいっそう進み、やがて原初的抽象絵画が、点、線、面、フォルム、色彩、マティエール等各造形要素そのものの固有の生命が解放されていくという流れの中で生まれた。
つまり、具象か抽象ではなく、抽象は具象の一帰結点というべきであり、その源流をセザンヌの「サント・ヴィクトワール」シリーズ辺りに見、それ故セザンヌを「現代絵画の父」とする美術史上の解釈には合理性がある。
そもそも「抽象」とは「象」(かたち)を「抽きだす=abstract」)ということである。例えば人間の感情、精神には「象」がない。それを何某かの「象」で表現すること、即ち「抽きだす」行為が抽象行為であり、抽象画はその最も純粋な造形形式であるということである。したがって、具象絵画もその意味では抽象的意義を含むわけであるし、その際抽き出すものを何某かの象を通じて行うか、全く新しい象を創造するかの違いで具・抽が分かれるだけで、画面上に現れる具・抽の分量を議論しても意味はない。
ともかく、その本来の意味が時代を経るに従い、抽象→象(形)がないもの→難解でわけわからないもの、と変っていき、それが今日の「抽象的」という概念に結びついたのである。
しかしその「わけわからないもの」の「意義は内容は同一ではない。例えば(一概には言えないが)モンドリアンやカンディンスキーは構成、スラージュやシュネイデルはタッチ(筆づかい)、アペルやフォートリエはマティエール、タピエスやクラインは色彩、ポロックなどは描画アクションそのもの等々、抽きだす対象も「美」そのものとなり、創造者の視点や感覚の違いに応じ、そのようないろいろな造形価値の希求の過程で絵画としての純化はいっそう進むことになる。このことからこう言う傾向を時に「純粋芸術」と呼ぶ場合がある。
これらは美術史上は、「抽象表現主義」、「アンフォルメル(非形象)」、ポップ、オップ、ミニマル、コンセプチュアル、エンヴァイロメント等々今日のコンテンポラリーに至るまで、下に「アート」を伴う様式の変遷は目まぐるしい。つまり、「抽象画」は一時代のあだ花として終わったというのは事実と違い、その思想は、受け継がれ、形を変えて生き続いていると解釈すべきであろう。
むしろあだ花として終わったのは、時代に阿ね、時流を追うばかりの流行りもの具象絵画、及び国策や政治主義にとりこまれた一部「メッセージ絵画」の方である。
ところで、私はコドモの頃当時全盛だった抽象絵画の一線に立つ画家のアトリエに通っていたことがある。その画家は何枚ものカルトン(下絵)を作り、時に色紙を切り抜いてモデルを作ったり、一枚のタブローを創るのに悪戦苦闘していたのを覚えている。何も判らない私に「どれが一番ハッとする?」などと聞いたりもした。
具象は現実のモティーフがあるのでそれを手がかりにすればよいが、抽象はそうはいかない。その意味では抽象の方が難しく苦労が多いはずだが、昨今の抽象画には造形性の甘さを感じ、その逆の印象を受けるのだが。
先ず「抽象」とはある日突然美術史上の現れたものではなく、先達が絵画の可能性と芸術的価値を追求していった過程で必然的に至った一「造形様式」であるということ。必然的とは現れるべくして現れるということである。印象派では色彩の中にフォルムが溶解していったが、その溶解はいっそう進み、やがて原初的抽象絵画が、点、線、面、フォルム、色彩、マティエール等各造形要素そのものの固有の生命が解放されていくという流れの中で生まれた。
つまり、具象か抽象ではなく、抽象は具象の一帰結点というべきであり、その源流をセザンヌの「サント・ヴィクトワール」シリーズ辺りに見、それ故セザンヌを「現代絵画の父」とする美術史上の解釈には合理性がある。
そもそも「抽象」とは「象」(かたち)を「抽きだす=abstract」)ということである。例えば人間の感情、精神には「象」がない。それを何某かの「象」で表現すること、即ち「抽きだす」行為が抽象行為であり、抽象画はその最も純粋な造形形式であるということである。したがって、具象絵画もその意味では抽象的意義を含むわけであるし、その際抽き出すものを何某かの象を通じて行うか、全く新しい象を創造するかの違いで具・抽が分かれるだけで、画面上に現れる具・抽の分量を議論しても意味はない。
ともかく、その本来の意味が時代を経るに従い、抽象→象(形)がないもの→難解でわけわからないもの、と変っていき、それが今日の「抽象的」という概念に結びついたのである。
しかしその「わけわからないもの」の「意義は内容は同一ではない。例えば(一概には言えないが)モンドリアンやカンディンスキーは構成、スラージュやシュネイデルはタッチ(筆づかい)、アペルやフォートリエはマティエール、タピエスやクラインは色彩、ポロックなどは描画アクションそのもの等々、抽きだす対象も「美」そのものとなり、創造者の視点や感覚の違いに応じ、そのようないろいろな造形価値の希求の過程で絵画としての純化はいっそう進むことになる。このことからこう言う傾向を時に「純粋芸術」と呼ぶ場合がある。
これらは美術史上は、「抽象表現主義」、「アンフォルメル(非形象)」、ポップ、オップ、ミニマル、コンセプチュアル、エンヴァイロメント等々今日のコンテンポラリーに至るまで、下に「アート」を伴う様式の変遷は目まぐるしい。つまり、「抽象画」は一時代のあだ花として終わったというのは事実と違い、その思想は、受け継がれ、形を変えて生き続いていると解釈すべきであろう。
むしろあだ花として終わったのは、時代に阿ね、時流を追うばかりの流行りもの具象絵画、及び国策や政治主義にとりこまれた一部「メッセージ絵画」の方である。
ところで、私はコドモの頃当時全盛だった抽象絵画の一線に立つ画家のアトリエに通っていたことがある。その画家は何枚ものカルトン(下絵)を作り、時に色紙を切り抜いてモデルを作ったり、一枚のタブローを創るのに悪戦苦闘していたのを覚えている。何も判らない私に「どれが一番ハッとする?」などと聞いたりもした。
具象は現実のモティーフがあるのでそれを手がかりにすればよいが、抽象はそうはいかない。その意味では抽象の方が難しく苦労が多いはずだが、昨今の抽象画には造形性の甘さを感じ、その逆の印象を受けるのだが。