転載記事(一部追加)

≪ところで相変わらず「絵画と写真」の関係について言及しているものをあっちこっちで見かける。先ずもって彼らが「写真描き」批判に対して過敏なほどの反応するというのはその「写真転写作業」に忸怩たる思いがあることの証左であろう。とするならどうせ写真見て描いたってあの程度なのだから、さっさと現物観て描けば良いではないかと思うのだが、頑迷なスローガン主義はそうもいかないのだろう。何回言っても理解できない者に無駄な労は費やさないが、不思議にこのテーマはいろんなところ目に付くので改めて言及する。
 先ず、例えば大人でも自分の孫子(まごこ)でも「絵を勉強したい」と言って来た時、花でも人の顔でも「描きたいものを、自分の見た通り、自分の感じた通りのことを、下手でもなんでも良いから一生懸命描きなさい」と言うのが普通の人間だろう。その際「写真を上手に写しなさい」と言う人間がいたらよほどの「人格崩壊者」である。実はこのことこそがコドモから超ベテラン、ビギナーから専門家に至るまで凡そ絵画芸術の本質に係る「プリミティヴな原理」に他ならない。やがて「描きたいものが描きたいように描けない」という壁に必ずぶつかる。そこに方法論、技術論、修行体系がある。古今東西まともな造形の教育・修行機関で写真の転写をカリキュラムに入れているところなど一つもない。これは「創造の自由」などという次元の話ではない。そうして「写真を見て描くべきでない」というのはそういう造形の本質、あるべき姿について語っていることなのだ。
 これは、ある程度自我の造形世界を確立した者、即ち「写真に描かされる」ことなく写真をコントロールできるものが、制作上の資料として、職業的要請から、取材の効率上の問題として、写真を援用すると言うのとは全く次元の違う話。
 フェルメールの「カメラオブスキュア」やコローの、出始めのピンボケ写真からヒントを得た銀灰色グラデーション、その他写真に関心を持った画家は多い。おそらくダビンチなどの好奇心旺盛な画家も写真があったら利用していただろう。
 しかし忘れてはいけない。彼らには決して写真などに「描かされる」ことのないしっかりした造形性がその前提としてあったということ。逆に言えば、造形の基礎が出来ていない、右も左もわからない者、あるいは画才のカケラも無い者が(追加)、「写真見て描く」などというような「高等芸」が出来るはずがない。その「転写作業」で得るものは、向こうが透けて見えるような軽薄な、スナップ写真、出来損ないの書割、人相画程度であろう。≫

 今回の芸術祭のまとめとして以下のようなことを書いた。
「…その充実した内容や練磨された技量をみるにつけ、当然ながら、様々な分野に切磋琢磨があり、改めて表現すること、創造すること、それ自体の意義や喜びを共有できたような思いである…」
 当然のことながら彼らは無報酬である。生活と戦い、犠牲にしなければならないものもあるだろう。しかし、ただ発表する内容の意義と成功のため全力をあげる。こういう芸術家の精神は、金に換算しなければ収まりがつかないような者には逆立ちしたってわからないだろう。「プロ」と「アマ」を言うならその精神こそが「プロ」なのである。 
 「写真やパソコン、小道具などの手練手管で上手に転写すること」も絵画であり創造の自由とデタラメを振り撒き、芸術家への卑劣な人格攻撃を一方で行うような賎しい人格を孫子の代まで晒すのは勝手だが、ここは「芸術文化」のカテゴリーであり、真面目に芸術を語り合い、ネットコミニュテーを文化としての意義あるものとしたい、真摯に絵を学びたいという人のために害となるものはこれからも排除に努める。