もう一つ、かする程度の縁の話である。
 先の義母の息子、即ち私の義兄は、現在も荏原製作所という会社に勤務している。彼が大学院を出て入社したばかりの時に「酒井億尋」は相談役として在籍していた。
 この酒井は荏原の創業者の妹を娶り、その後社長、会長を歴任、今日のような大企業に育て上げた功労者のようだが彼にはもう一つの顔があった。彼は佐渡ヶ島から上京した当初は画家志望であったが、強度な近視でもあり、幸か不幸か会社の出世コースに乗ったので、実作より周辺のことで本邦美術界に多大に貢献することになる。彼は、ルノワールなどを所持したり大正、昭和期の画家達のパトロン筋であったりした。また梅原龍三郎や安井曽太郎などとも交流があり、安井は家も近所で、荏原の熱海寮で長期滞在し制作したこともある。そういう関係もあるのか、彼はつい最近まであった洋画界の登竜門、「安井賞」を主宰する財団法人安井曽太郎記念会の理事長を務めていた。
 この酒井は「中村屋サロン」で5歳ほど年長の中村彝を知る。家も供に下落合近辺であり頻繁に彝のアトリエに出入りし、彝も相当酒井に助けられたはずである。後年「中村彝会」が彝のアトリエの維持に困難が生じた際、これを買い支え、先に述べた鈴木誠の所有に繋げたのも彼である。 
 酒井は故人となったが、これも80年前の話に温度を感じる。で実はこの酒井億尋は件の佐伯祐三の下落合のアトリエの地主らしいのである。「らしい」というのは、当時の住宅地図と課税台帳とに名義人につき違いがあるということである。前者については「酒井億尋」名義の地番で、隣接する二筆の土地の一筆が確かに佐伯アトリエの場所であるが、後者のでは別名義となっているのである。 ただ、登記簿に「公信力」ないのと同様、課税台帳は所有権の実体を反映するものとは限らないので、地図の実務性の方が信用できそうだ。因みにその土地が名実ともに佐伯家のものとなったのは昭和22年。名義人は「佐伯ヨネ」(米子ではない)となっている。
 因みにこの土地取得の経緯について、落合莞爾氏による例の一連の佐伯関係の著作にも出て来る。それには藤根大庭とか吉薗周蔵とかの、落合氏著作登場人物らが一枚噛んでいるというのだ。このほか佐伯とは直接関係ないが、遠藤繁清という医師も出てくる。彼は「余命一週間」と言われた中村彝を三年も延命させた名医として彝の評伝にでて来る実在した人物である。
 その遠藤医師は、彝と佐伯の共通の友人である曽宮一念の主治医でもあり、曽宮は渡仏する遠藤医師に佐伯を診てくれるようたのんでいる。(実現しなかったようだ)その遠藤医師が登場するのは、吉薗関係文書中で、彝の「主治医」とされた件だが、その文書の信憑性に関し、例の武生市関係側からその時間的齟齬を突かれると、落合氏はそれは繁清の親戚の別の遠藤だと言っている。また氏によると佐伯作品が戦前、件の酒井億尋に渡ったそうである。これは荏原なり酒井家調べれば答えが出ることだろう。
 このように史実を「吉薗資料」と関連させて論じそれにリアリティーを与えると言う落合氏のレトリックは随所で見られるが、証拠、根拠を伴わなければSFならぬHF(ヒストリーフィクッション)ということになってしまうだろう。