明治、大正から終戦後ぐらいまでの本邦美術界は未だその世界が小さく、その動向や情報も限られていたので、その間の出来事や、居住地域、人脈にも今日的感覚では驚くような接点が見られるが、ましてやそれが、掠る程度の縁であっても自分の身近にそうしたものを感じると、客観的に評伝でしか知見できなかったものが俄然リアリティーをもって迫ってくるし、遠いと思っていた歴史が意外に近いと感ずるものである。
 佐伯米子は戦後まもなく三岸節子らとともに「女流画家協会」を設立する。この創立メンバーに深沢紅子という画家がいた。現在その出身地盛岡と軽井沢に「深沢紅子野の花美術館」というのがあり、今でも一部に根強いファンがいるようだ。
 彼女は旧姓四戸、1919年盛岡高女を卒業し女子美大日本画科に進み、洋画に転向、1923年同郷の画家深沢省三と結婚する。1936年、安井曽太郎、山下新太郎、有島生馬などとともに二科会を脱退、一水会設立に参画しその後委員として諸々の指導的立場に立つことになり、1993年、夫省三死去の一年後90歳で死去する。紅子のアトリエ跡は拙宅そば、練馬区の石神井川に面した高台の斜面に現存する。
 私の義母の女学校時代の親友と紅子のアトリエの地主が、それぞれの子が通う自由学園を通じて知り合いであり、そういう関係が巡り、紅子と義母も、家も近所ということもあり懇意となった。紅子の一水会出品作で義母がモデルの作品もある。その義母も故人となったが、紅子のアトリエの設計図や「野の花」の画集、省三の挿絵による絵本、省三死去時の紅子名義の、紅子死去時の子息名義の「会葬御礼」のはがきなども残っており、相当の往来を感じさせる。
 一方、その夫深沢省三は長身であることにより「ジラフ」との仇名で呼ばれていたそうだが、彼はかの鈴木三重吉主宰で児童向け雑誌のパイオニアの「赤い鳥」に関係し童話の挿絵画家としても実績ある画家だった。1899盛岡生まれ、実は彼は川端画学校、美校で佐伯祐三と同窓で、一部佐伯評伝中にもその名が出てくるのである。つまり、佐伯米子と深沢紅子は女流画家協会の設立会員で繋がり、佐伯祐三と深沢省三も旧知の間柄であったということになる。
 その佐伯祐三は北野中学時代野球部員であった。その関係から省三に誘われ「赤い鳥」グループの野球部に関係したとの評伝もある。省三自身も野球をしていたので、佐伯の名前は野球雑誌を通じ、川端画学校で一緒になる前から知っていたというのは省三自身の言葉であり、佐伯とキャッチボールをしていたと言う話も残っている。
 この佐伯の野球に関し、彼は、現在の「春夏の甲子園野球」の前身である全国中等学校野球選手権地区予選に出場し、キャプテンにもなり、その名が見える記録も野球博物館に残っているなどかなり本格的なものとする一部評伝では、佐伯の野球は「運動オンチの趣味程度」と記述している阪本勝に対して、他にも事実との齟齬や佐伯関係者の証言をあげ、阪本は本当に佐伯の親友であったのかなど全体に疑問を投げかけているのもある。