後年「中村屋サロン」と言われるような、今も新宿に現存する「中村屋」の創始者相馬愛蔵・黒光夫妻の文化・芸術に係る造詣、メセナは、先に述べた本邦美術界の「国家支配」に対峙するような、市民レベルの活動として美術史に限られず特記されるべきであろう。
 例えば私が小学生の頃から進化していない部分があるとすれば「カレーライス」に対する嗜好であるがが、これを日本に初めて伝えたのがラス・ビハリ・ボースという、反英独立運動の闘士の亡命インド人であり、彼は中村屋に起居していた。彼は日英同盟下で日英双方の官憲から追われる身となり、彼をかくまうよう中村屋に依頼したのが、かの「大アジア主義者」の頭山満である。因みに「極東軍事裁判」で唯一「日本無罪論」を唱えたパール判事もインド人であり、それはこのような従前からの日本の「反英独立」支援の経緯が背景にあったからで、直ちに「大東亜戦争肯定論」に繋げるべきではあるまい。因みに中村屋は、関東大震災時における風聞による朝鮮人殺戮から朝鮮人をかくまったりもした。
 ともかく中村屋サロンとは、そこに現れる登場人物といい、時代との関わり方といい、人間ドラマといい、国家コントロール下にあった胡散臭い官展・官学系の芸術エスタブリッシュメントよりは余程人間的で芸術的魅力溢れる。
 その中心にあり、各種評伝からも別格の興味を引くのが相馬黒光(ペンネームで本名は良)という女性である。因みに私は彼女を女優宇津宮雅代とオーバーラップするが(知る人ぞ知る)、黒光と荻原守衛(碌山)との関係は、NHKの「迷宮美術館」では穏健に取り上げていたが、徒ならぬものがあったようだ。
 碌山の「女」という文展出品の代表作は実際には別のモデルがいたが、彼の黒光に対する憧憬の投影であるといわれ、一方故郷安曇野に帰る碌山の遺体に半狂乱になって取りすがり、その直後戸張狐雁の前で、冷徹なまでに彼の日記を一枚一枚火にくべる黒光の姿は誰が見ても尋常ではない。
 碌山の死を聞かされた高村光太郎が、「守衛の死因は黒光にうつされた脳梅だ!」と激怒したとか、黒光夫妻を取り上げた小説「安曇野」の作者臼井吉見が碌山自殺説を唱えるなど、その関係はとにかくドラマテックである。
 中村屋を舞台とした男女間をめぐるドラマといえば中村彝と相馬夫妻の娘俊子との事件もある。夫妻は「進歩的文化人」であっても「人」の子、娘のことなるとやはり保守的になるのか、夫妻が娘俊子に対する中村彝の求婚を拒絶したのは、俊子が未だ若すぎたこともあるが、夫妻が彝の病気や貧困を配慮したことに因するのは間違いあるまい。しかし、俊子は先のビハリ・ボースと結婚することになるが27歳の若さで病により没する。
 この彝の「恋愛事件」は彝の人生に大きな影を落とす。この事件をめぐる一連の彝の行動は常軌を逸したものと伝えられている。彼は俊子に駆け落ちを迫り、愛蔵に「殺してやる」と日本刀をチラつかせ、俊子を匿った者の家に夜石を投げつける、(ただこの辺は、黒光の言であり、彼女には彝、俊子間に屈折した感情があったとされる)。ともかく彝は、結局中村屋を去り、大島へ傷心の旅に出る。温厚でキリスト教の洗礼さえ受けた彝、チェンニーニの技法書を翻訳するほどフランス語に長けたインテリの彝、業病を抱え常に死と向き合ってた彼が、何ゆえ俊子にそれほどまでに憑かれるのか、これは単なる男女間の問題ではなく、彝の芸術とも関連する。彝 は「エロシェンコ」以前、この俊子をモデルに何枚も描き、その人物画家としての資質を開花させていった。彼にとって俊子は碌山における黒光のような存在ではなかったのか。碌山の苦悩や彝の逆上を芸術家評伝風に言えばこうなる。愛→生命→創造→美。それが得られない、奪われると言うことは最後→死に繋がってしまう、そのことへの畏れではなかったのかと。 エロシェンコを競作した鶴田五郎によると、黒光は彝の遺体にも取りすがり泣き続けたという。ともかく黒光とはいろいろ複雑な女性であったようだ。 
 中村屋サロンに関係した絵画・彫刻関係者をまとめると、荻原碌山、中村彝、中原悌二郎、高村光太郎、長沼(高村)智恵子、戸張狐雁、鶴田五郎、中村不折、柳敬助など。このうち中村彝、鶴田五郎は曽宮一念などの下落合人脈に繋がり曽宮は佐伯祐三と親しくなるが佐伯は中村屋サロン人脈には接点がない。