1969年、「幽玄美の巨匠」として功なり名遂げた 坂本繁二郎は87歳で死去する。それから11年後の1980年と言うからつい最近といってよい。美術界の一部に衝撃を与えるような事実が明らかとなる。
 坂本繁二郎と言うとすぐに青木繁の名前が挙がる。周知のように彼らは同郷、同年、高等小学校の同窓であり諸々の評伝でも常にその因縁や違いが並び評される間柄である。
「明治の浪漫、夭折の天才」として青木の名声は、その後「海の幸」と「わだつみのいろころみや」の、異例とも言える二点が重文指定されるなど時を経るごとに高まり、1972年、「生誕90年青木繁展」が東京ブリジストン、久留米石橋両美術館で盛大に開催された。それ以前から、他に青木の作品が存在していないかは多年にわたる関係方面の重大関心事であったし、関係者でそれを所有している者があったら何某かの動きがあってしかるべき状況にあった。
 そして坂本の死後、件の1980年、その遺品を整理していた遺族が坂本自筆による「青木関係」と書かれた紙包みを発見する。驚くべきことにその中に、水彩、油彩、鉛筆、パステル等60余点もの青木の未公開作品があったのである。これは単なる青木の未知の作品の発見と言う意義に留まらない、何故どういう経緯で坂本がそれを所有していたかを含め、青木と坂本の関係に新たな視点をもたらすものであったと言える。
 それから80余年も前に遡る1902年(明治35年)、若き日の青木繁、坂本繁二郎、そして同郷で青木とは明善中、美校で同窓の丸野豊の三人は妙義山・信州へ長期の旅行に出る。青木はその際何枚かの風景スケッチを描いているが、その時のものである風景画もその包みの中に含まれいたことにより、それが当時のものであったこと判断される。その中に青木繁筆による、能面、狂言面、舞楽面等36面にわたる面類のデッサンがあったのである。それは青木が1901年の帝室博物館で展覧されたものをスケッチしたもので名称、来歴、色彩等のメモも書かれていた。
 坂本繁二郎は、芸術院会員(辞退)、文化勲章など本邦洋画界の国家褒賞体系の頂点を極めたような画家で、その実績は「能面」などをモティーフにした「幽玄」の画境の評価にある。
 その坂本は、自身三木露風と能を観賞して以来能に魅了されたと述べているし、画家が同じモティーフを扱うのはあり得ることでその限りでは恥でもなんでもないが、青木と坂本の特別な関係から、その能面などを最初に描いたのは坂本ではなく青木の方だったということになれば、その「パクリ」が話題となり、坂本のキンキラキンの権威に何某かの影を落としかねない。否、「創造のオリジナリティー」は創造者にとって第一義に問われる死活問題である。たった一度の「出来心」でそれまでの実績が灰燼に帰したという例もある。したがって、本人にしてみればその評価が根こそぎ覆されるのではないかと言う恐怖心を抱くのも自然なこと。
 前述のように、青木の未知の作品の発見は関係者の関心事であり、そういう状況を坂本自身感じ取ってないはずはない。そうしたことから、青木の作品群の存在を坂本の単なる「失念」と捉えるより、そのことはどうしても知られたくないという意志が働いた、坂本による「秘匿」と捉えたほうが自然なのである。そうだとしたら、言わば、お互い右も左もわからぬ「コドモ」の頃のものを、80年も隠し続けるという心理とはいかなるものか、単なる「三つ子の魂百まで」に留まらない、深層心理が底流にあるのではないか?
 一部評伝では坂本の青木に対する屈折した感情の存在を指摘、松本清張はそれを明確に「コンプレックス」と言い切っているが、坂本は生涯それを抱いていたのではないかという観測が成り立つ。それは他に様々なエピソードに見られるのである。