≪右を見ても左を見ても希望はない、世は差別と不合理と悲しみに満ち、衆愚、凡俗が闊歩し、国は物欲と享楽の巷、虚栄と陥穽の坩堝となり、文化は低俗、「芸術」は胡散臭く、流行りものと権威主義ばかりが蔓延り、…そんな中やせ細った背中に、あたかも悲しきゴルゴダへの命運をたどるキリストのごとく、それらの重き「試練」の十字架を背負い、我が罪と恥を思い、芸術の奥義に比しその未熟と非力に悩み、生活と戦い、あてもない創造の世界にひたすら忍従の時を過ごす、嗚呼、なんて可哀想な私…≫
勿論、古今東西、創造者、表現者、求道者、思索家と呼ばれる者らにはこのような厭世観や自虐思想は大なり小なり持つものだ。それは現実を直視し、自己啓発にあい努める姿勢が真摯なればなるほど、世の不合理や自己の未熟を感ずるのは必然のことだからである。その意味では無能、鈍感、怠惰の徒の方がなんの苦痛なく元気に生きられるのである。
しかし、このような思考を強く作品に投影させただけで美術史上にその名を留めた画家はほとんどいない!
なぜならそれは創造者として当たり前の「宿命」であり、絵画とは、その当たり前のことを作品に投影さえすれば即絵画的価値となると言うような甘いものではないし、何より画家とは、絵画的価値をそのような次元を超えた、もっと高貴で純粋で理想に満ちた世界に求めるからである。
絵画的価値とは正に絵画的価値であり、文学的価値でも、工芸品的価値でも、映画・演劇的価値でも、写真等他のグラフィック的価値でも、商業美術的価値でもない。
例えば「絵画的表現性」、即ち情念、美意識、喜怒哀楽、イメージ、思想等を「表現する」ようなものと、「文学性」とは違う。後者が色濃く出たものは絵画として否定される。弱弱しく、時に女々しく、辛気臭くてたまったものではない。なぜなら造形世界はもっと強いものが求められるものだからである。色彩があり、フォルムがあり、構成空間があり、マティエールがある。そうしたものを如何に生かすか、その中で如何に絵画としての独自の価値体系を創り出すか、数百年に及ぶ造形の歴史とはその苦闘と試行錯誤の歴史に他ならない。言葉しかない文学とは違うのだ。
この各芸術の、メッセージ・メディアとしての意義や機能の違いという基礎中の基礎がわかっていない者がしばしば何人か現れ、絵画世界を混乱させているのは看過できることではない。
例えば「リアリズム」の中でも、映画の「イタリアンリアリズム」のようなものに近い、社会的メッセージ性の強いジャンルもあるが、絵画である以上その中でも先ず問われるのは絵画としての造形的完成度である。出来の悪いプロレタリアアートや戦争記録絵画のようなものは、ただの政治主義のプロパガンダの所産として歴史の彼方に屠られるであろう。
仮に絵画的価値が認められるもであっても、それは、絵画の中のほんの一ジャンルに過ぎない。いわんや絵画とは須くかくあるべしなどとしたらこれはもう絵画芸術そのものの否定である。
当然色彩やフォルムそのものの生命を、「表現性」と切り離して開放するという絵画としての重要な生き方もある。
ゴッホらは「恨み辛み」の手紙を残し、セザンヌは「この世は恐ろしい」と言った。ゴーギャンしかり、モディしかり、佐伯しかり、利行しかり…、殉職、討ち死、野垂れ死の例は枚挙に暇ない。
しかし忘れてはいけない、みんなやることはやっているのだ!そのような好ましからざる状況を、より高い創造や表現のエネルギーに転化する、それが画家であり創造者というものではないのか!
クドクド愚痴ったり、不平不満を吐き出すことも結構だが、それ自体の「カタルシス的効果」に何某かの快感を得、あるいは自分はこんなに苦しんでいるのだからとの免責効果さえ期待する、そのくせ、状況へのコミットは曖昧、半端、真の敵には対処せず、物事の優先順位がつけらず、時に「自分を苦しめている」はずの現実の一部と妥協したりそれに理解を示しながら、一方で逃げ出すことばかりを考える。
こう言う人種を≪苦しがりたがり屋≫と言う。
思想を創造と関連させて語るなら、まともな作品を一つでも残すべき。それができなければ、ただの「苦しがりたがり屋」として、本当は「恐慌待望論者」ではと、体制ベッタリ・保守の「下衆のかんぐり」に付け込まれるだけだろう。
勿論、古今東西、創造者、表現者、求道者、思索家と呼ばれる者らにはこのような厭世観や自虐思想は大なり小なり持つものだ。それは現実を直視し、自己啓発にあい努める姿勢が真摯なればなるほど、世の不合理や自己の未熟を感ずるのは必然のことだからである。その意味では無能、鈍感、怠惰の徒の方がなんの苦痛なく元気に生きられるのである。
しかし、このような思考を強く作品に投影させただけで美術史上にその名を留めた画家はほとんどいない!
なぜならそれは創造者として当たり前の「宿命」であり、絵画とは、その当たり前のことを作品に投影さえすれば即絵画的価値となると言うような甘いものではないし、何より画家とは、絵画的価値をそのような次元を超えた、もっと高貴で純粋で理想に満ちた世界に求めるからである。
絵画的価値とは正に絵画的価値であり、文学的価値でも、工芸品的価値でも、映画・演劇的価値でも、写真等他のグラフィック的価値でも、商業美術的価値でもない。
例えば「絵画的表現性」、即ち情念、美意識、喜怒哀楽、イメージ、思想等を「表現する」ようなものと、「文学性」とは違う。後者が色濃く出たものは絵画として否定される。弱弱しく、時に女々しく、辛気臭くてたまったものではない。なぜなら造形世界はもっと強いものが求められるものだからである。色彩があり、フォルムがあり、構成空間があり、マティエールがある。そうしたものを如何に生かすか、その中で如何に絵画としての独自の価値体系を創り出すか、数百年に及ぶ造形の歴史とはその苦闘と試行錯誤の歴史に他ならない。言葉しかない文学とは違うのだ。
この各芸術の、メッセージ・メディアとしての意義や機能の違いという基礎中の基礎がわかっていない者がしばしば何人か現れ、絵画世界を混乱させているのは看過できることではない。
例えば「リアリズム」の中でも、映画の「イタリアンリアリズム」のようなものに近い、社会的メッセージ性の強いジャンルもあるが、絵画である以上その中でも先ず問われるのは絵画としての造形的完成度である。出来の悪いプロレタリアアートや戦争記録絵画のようなものは、ただの政治主義のプロパガンダの所産として歴史の彼方に屠られるであろう。
仮に絵画的価値が認められるもであっても、それは、絵画の中のほんの一ジャンルに過ぎない。いわんや絵画とは須くかくあるべしなどとしたらこれはもう絵画芸術そのものの否定である。
当然色彩やフォルムそのものの生命を、「表現性」と切り離して開放するという絵画としての重要な生き方もある。
ゴッホらは「恨み辛み」の手紙を残し、セザンヌは「この世は恐ろしい」と言った。ゴーギャンしかり、モディしかり、佐伯しかり、利行しかり…、殉職、討ち死、野垂れ死の例は枚挙に暇ない。
しかし忘れてはいけない、みんなやることはやっているのだ!そのような好ましからざる状況を、より高い創造や表現のエネルギーに転化する、それが画家であり創造者というものではないのか!
クドクド愚痴ったり、不平不満を吐き出すことも結構だが、それ自体の「カタルシス的効果」に何某かの快感を得、あるいは自分はこんなに苦しんでいるのだからとの免責効果さえ期待する、そのくせ、状況へのコミットは曖昧、半端、真の敵には対処せず、物事の優先順位がつけらず、時に「自分を苦しめている」はずの現実の一部と妥協したりそれに理解を示しながら、一方で逃げ出すことばかりを考える。
こう言う人種を≪苦しがりたがり屋≫と言う。
思想を創造と関連させて語るなら、まともな作品を一つでも残すべき。それができなければ、ただの「苦しがりたがり屋」として、本当は「恐慌待望論者」ではと、体制ベッタリ・保守の「下衆のかんぐり」に付け込まれるだけだろう。