佐伯祐三が生まれた年は1898年である。この少し前の1889年、本邦では初めてと言える本格的洋画会が生まれた。浅井忠を中心とした「明治美術会」である。また東京美術学校西洋画科が佐伯生誕のわずか2年前の1896年に開設される。さらにこの年、明治美術会(古典主義系)と袂を分かった、印象派系(外光派)系の黒田清輝らが「白馬会」を結成する。
 つまり佐伯生誕にあわせるように、本邦洋画界の諸々の体系化が本格的に始まったと言える。
 西洋に眼を転ずれば、これは驚嘆に値する。1863年、マネが「草上の食事」、「「オランピア」を描き、1874年モネが「印象・日の出」を描き、そういう西洋絵画の革命的転換期を経て、1886年新印象派スーラの「グランドジャットの日曜日」、1889年ゴッホの「糸杉」、1890年セザンヌの「サントヴィクトワール」シリーズと続き1891年にはゴーギャンはタヒチで制作を始める。まさに綺羅星のごとき作家達が美術史上のエッポクとなるような仕事をしているのである。
 そして佐伯がヴラマンクと会ったのが1924年、その年、大御所黒田清輝が死に、アンドレ・ブルトンの「シュールレアリズム」宣言が行われる。これも象徴的なこと。
 この間本邦では大正ロマン、大正デモクラシー、無産運動など、戦争や結核の蔓延、国家主義の専横など、人間存在への不安と生きるべき模索のための文学、演劇、社会思想などが花開き、絵画界でも数多の団体・会派の結成、中村屋サロン、池袋モンパルナスなどめまぐるしい動きがあった。それらのほとんどが佐伯死後の敗戦を機にガラガラポンとなり、戦後津波のように押し寄せたアメリカ文化に主体性ある日本の文化は尻の毛まで抜かれたというところか。
 「天才にはそれにふさわしい舞台が用意される」ということか、もしかしたら佐伯の画業とは、前後に例を見ない、これからもあり得ない、いい意味でも悪い意味でも、緊張感と刺激に溢れた、表現者、創造者としてモティーフに事欠かない、その意味で「恵まれた」環境に支えられていたのではないか?
 この辺のところもう少し探らないと結論は出せないが。