民主党が圧勝した。対米隷属、官僚壟断、財界傀儡の、あのどうしようもない自民党よりは多少増しという気がするが、安易な幻想によらず覚醒した精神によりその動向を見据えなければ、従前よりもっとひどいことになろう。即ち警戒すべきは「大連立」による「総保守翼賛」体制である。自民党はその政権維持のためには、長年対立関係にあったあの社会党にすら擦り寄ることができたしたたかな党である。その結果ひとたび村山内閣は誕生したが、その後自民党は今日に至るまでその政権を奪回し、社会党は消えてなくなったのである。
そもそも民主党は、その野党的立場を際立たせるため、反自民的独自性を主張する必要があったが、その本質を分析すれば戦後自民党が敷いた保守路線の上にあることに変わりないということをしっかりと認識すべきである。
元は自民党という民主党議員はゴロゴロいる。その自民党を出た原因も、政争、感情的対立などで、イデオロギーではない場合が多い。候補者経歴の一ステータスとして「松下政経塾」出身を誇らしげに語っているが、この創始者松下幸之助こそ、「土建屋国家」、「エコノミック・アニマル」、「ワークホリック」、「賎民資本主義」、「日本株式会社」などと、世界から揶揄された戦後日本の生産至上主義、開発優先、政・財・官支配体制下の、立志伝中の象徴的存在であり、件の塾はそうした体制に貢献すべき「期待される人間像」養成機関であることは争いの余地ない。
個々の議員をみても、その思想以前に、選挙区の事情とか、打算・利害得失の政治力学とかでたまたま民主党に属しているが、風の吹きようでどう変わるか判ったものではない。
とりわけ忘れてならないのは、その民主党の有力支持母体である「連合」である。その「労働戦線の統一」に至る経緯からみても、現実の労使関係から見ても、それが戦うことを放棄した、「反共・労使協調」の小市民的生活保守主義の実体にあることは明らかであり、これを、資本と対峙する「労働者」とか「階級闘争の主体」などとみるのは、現実を見れない、左翼教条主義ボケから来た甚だしい幻想である。 労働者としての自覚も誇り無く、体制迎合するその姿からは、「聞け万国の労働者」にある「汝の部署を放棄せよ 汝の価値に目醒むべし 全一日の休業は 社会の虚偽をうつものぞ」など懐メロの世界である。
先に松下幸之助の話をしたが、この松下電器(現在のパナソニック)労組はかつて「電気労連」の有力単組であり、今日連合でも大きな位置を占めているが、その電気労連・中立労連は件の「戦線統一→労使協調路線」の旗振り役であり、その労組から社会党候補として参院選に立候補した組合幹部は≪労使ぐるみ≫で応援され悠々当選したのである。松下政経塾と供に象徴的因縁を感ずる。
ともかく彼らの巨大組織は、自分達の従前からの生活水準の維持や諸権利保守のためのものであり、社会的・階級的正義の視点なく、その実行に無関心であると言うことは、先の「派遣切り」に見られた非正規雇用や失業者への冷淡な対処の仕方をみれば明らかであろう。つまり彼らの「運動方針」は社会の最底辺部を切り捨てた上にあるのである。
ところで今回の民主党の「爆勝」は再三言って来たが、この国の人間の特質である、マスメディアの「情報操作」、「世論誘導」に乗せられ易い、そのミーハー的感覚が大きく影響していることは間違いない。個々の候補者など何処の馬の骨かどうでも良い、とにかく民主党に入れる、そういうところだ。あの「小泉人気」もほんの数年前ではないか。正にその政治感覚は白痴的。一朝転ずれば再び自民党に転び得るという程度のものである。いや、もっと右の「右翼・民族主義」系に流れる可能性だってある。
そもそもこの国の国民の政治的メンタリティーとは、何が正義か、何が真実か、何が理想か、何がこの国・自分たちのためになるかの価値判断にない。地縁血縁、利害関係、話題性、タレント性、そして件のムード的なものである。だから何回悪いことをしようと何回汚職しようと、当選するものは当選する。そうして戦後保守政治は続いたのだ。だから共産党のように「正しいのは自分たちだけ」などと言ってもクソにもならない。
因みに共産党もバカではない。それくらいのことは気づいているはずだ。百も承知で、そういうメンタリティーに合わせようとはしない。つまり、自分達だけは「綺麗でいたい」のだ!しかし所詮政治である。文化・芸術の世界ではない。綺麗である必要はないし、選挙に勝利し政権を本気で取ろうと思ったらそれなりにドロンコになる必要があろうというものだ。「沈香も焚かざれば屁もひらず」、人間的に魅力のない、代わりはいくらでもいるような者ばかり集めても、仲間内以外からは相手にされるまい。
ともかく、暫くは民主、自民が一方が圧勝し、一方が惨敗すると言う繰り返しが続くだろう、其処で双方ががそのリスクを避けることを考える。どうするか?保守二党の大連立である。左翼は「エエ恰好し」で右翼は声がデカイだけ。こうして新たな支配体制が出来上がる。
いずれにしろ政治とは、文化芸術を含めた数多の人間社会の一領域に過ぎない。どう転んでもご都合主義で時に空しく、薄汚く、信じた方が馬鹿をみる。政治主義は集団的価値体系であり、絶対に「個」のレベルにまで至らない。したがって右か左か政治主義的に選別されたり、特定の価値体系に組する必要はない。しかし、放って置けばその人間社会そのものを崩壊させる力もある。だから無関心でもいられない。
追記
全く関係ないけど、テレビ局が「感動」を演出するのは結構だけど、どうしてそれがいつも「〇〇時間耐久マラソン」なのか?それとも他に感動するものがないのだろうか!?それに「感動をありがとう!」なんて、こっちが恥ずかしくなる!
そもそも民主党は、その野党的立場を際立たせるため、反自民的独自性を主張する必要があったが、その本質を分析すれば戦後自民党が敷いた保守路線の上にあることに変わりないということをしっかりと認識すべきである。
元は自民党という民主党議員はゴロゴロいる。その自民党を出た原因も、政争、感情的対立などで、イデオロギーではない場合が多い。候補者経歴の一ステータスとして「松下政経塾」出身を誇らしげに語っているが、この創始者松下幸之助こそ、「土建屋国家」、「エコノミック・アニマル」、「ワークホリック」、「賎民資本主義」、「日本株式会社」などと、世界から揶揄された戦後日本の生産至上主義、開発優先、政・財・官支配体制下の、立志伝中の象徴的存在であり、件の塾はそうした体制に貢献すべき「期待される人間像」養成機関であることは争いの余地ない。
個々の議員をみても、その思想以前に、選挙区の事情とか、打算・利害得失の政治力学とかでたまたま民主党に属しているが、風の吹きようでどう変わるか判ったものではない。
とりわけ忘れてならないのは、その民主党の有力支持母体である「連合」である。その「労働戦線の統一」に至る経緯からみても、現実の労使関係から見ても、それが戦うことを放棄した、「反共・労使協調」の小市民的生活保守主義の実体にあることは明らかであり、これを、資本と対峙する「労働者」とか「階級闘争の主体」などとみるのは、現実を見れない、左翼教条主義ボケから来た甚だしい幻想である。 労働者としての自覚も誇り無く、体制迎合するその姿からは、「聞け万国の労働者」にある「汝の部署を放棄せよ 汝の価値に目醒むべし 全一日の休業は 社会の虚偽をうつものぞ」など懐メロの世界である。
先に松下幸之助の話をしたが、この松下電器(現在のパナソニック)労組はかつて「電気労連」の有力単組であり、今日連合でも大きな位置を占めているが、その電気労連・中立労連は件の「戦線統一→労使協調路線」の旗振り役であり、その労組から社会党候補として参院選に立候補した組合幹部は≪労使ぐるみ≫で応援され悠々当選したのである。松下政経塾と供に象徴的因縁を感ずる。
ともかく彼らの巨大組織は、自分達の従前からの生活水準の維持や諸権利保守のためのものであり、社会的・階級的正義の視点なく、その実行に無関心であると言うことは、先の「派遣切り」に見られた非正規雇用や失業者への冷淡な対処の仕方をみれば明らかであろう。つまり彼らの「運動方針」は社会の最底辺部を切り捨てた上にあるのである。
ところで今回の民主党の「爆勝」は再三言って来たが、この国の人間の特質である、マスメディアの「情報操作」、「世論誘導」に乗せられ易い、そのミーハー的感覚が大きく影響していることは間違いない。個々の候補者など何処の馬の骨かどうでも良い、とにかく民主党に入れる、そういうところだ。あの「小泉人気」もほんの数年前ではないか。正にその政治感覚は白痴的。一朝転ずれば再び自民党に転び得るという程度のものである。いや、もっと右の「右翼・民族主義」系に流れる可能性だってある。
そもそもこの国の国民の政治的メンタリティーとは、何が正義か、何が真実か、何が理想か、何がこの国・自分たちのためになるかの価値判断にない。地縁血縁、利害関係、話題性、タレント性、そして件のムード的なものである。だから何回悪いことをしようと何回汚職しようと、当選するものは当選する。そうして戦後保守政治は続いたのだ。だから共産党のように「正しいのは自分たちだけ」などと言ってもクソにもならない。
因みに共産党もバカではない。それくらいのことは気づいているはずだ。百も承知で、そういうメンタリティーに合わせようとはしない。つまり、自分達だけは「綺麗でいたい」のだ!しかし所詮政治である。文化・芸術の世界ではない。綺麗である必要はないし、選挙に勝利し政権を本気で取ろうと思ったらそれなりにドロンコになる必要があろうというものだ。「沈香も焚かざれば屁もひらず」、人間的に魅力のない、代わりはいくらでもいるような者ばかり集めても、仲間内以外からは相手にされるまい。
ともかく、暫くは民主、自民が一方が圧勝し、一方が惨敗すると言う繰り返しが続くだろう、其処で双方ががそのリスクを避けることを考える。どうするか?保守二党の大連立である。左翼は「エエ恰好し」で右翼は声がデカイだけ。こうして新たな支配体制が出来上がる。
いずれにしろ政治とは、文化芸術を含めた数多の人間社会の一領域に過ぎない。どう転んでもご都合主義で時に空しく、薄汚く、信じた方が馬鹿をみる。政治主義は集団的価値体系であり、絶対に「個」のレベルにまで至らない。したがって右か左か政治主義的に選別されたり、特定の価値体系に組する必要はない。しかし、放って置けばその人間社会そのものを崩壊させる力もある。だから無関心でもいられない。
追記
全く関係ないけど、テレビ局が「感動」を演出するのは結構だけど、どうしてそれがいつも「〇〇時間耐久マラソン」なのか?それとも他に感動するものがないのだろうか!?それに「感動をありがとう!」なんて、こっちが恥ずかしくなる!