whiteorion氏1

「掲示板に書き込まず、贋作事件にもからみ、微妙な問題もありますのでワードでまとめようとしています。しかしこの問題について少し書いてみます。

佐伯とブラマンクを会わせた里見勝蔵は佐伯のこともよく書いていますが、その著書に「ブラマンク」というのがあります。
彼がオーヴェルに行ったいきさつやブラマンクとはじめてあった話、それに続きブラマンクの生涯、絵画論が書いてあります。これを読んでいるとゴッホを読まなければならなくなってくる。
それはさておき、p51の部分を紹介しよう。
彼(ブラマンク)は私(里見)が持っていった二,三の絵について批評した。「君はパリにいる日本人に共通する悪い性質を持っている。それは取り去らねばならない。アカデミック、不健康、センチメンタル、部分的で全部平面。自然を模写するものではない。」これは藤田をさしているのだと私は感じた。「自然と絵は別だ。絵を描くのだ。いま河の景色を描くとする。オアズの河幅が20メートルあっても、それにこだわらない。河の情景に不必要なものはすべて取り去って、必要なものを描き入れなければならない」
「静物を描く場合、卓上の籠の中には栗が入っていても、背景の白い壁との調和によって、青い林檎にでも、赤い林檎にでも私は描くだろう。そうすれば、もっとよい効果が得られるのだ。」
「君のこの(風景)では、白い家の壁、黒い窓、緑色の鎧戸と黄の道とは、美しく調和している。しかし他の多くの部分は、互いに調和していない。例えば、一つの画面の中に百の物が描かれているとしたら、百のものが皆調和していなければならない。君のこの(風景)の中では、壁、鎧戸、道等の物だけが調和して、他の九十五の物はバラバラで調和していない。」
 p107
「私は決して美術館に行かない。その臭気と単調、厳格さには耐えられない。そこで私は学校を怠けたときの祖父の憤怒を思い出す。私は形式には少しもかかわらず、心をこめて描くだけである。私は友人に、私の女房をどんなやり方で愛するか?どんな女を愛すべきか?とは決して尋ねない。また一八〇二年の人が、いかにして女を愛したかについては無関係だ。私は人と同じように愛するが、しかし中学生や教授のようにではない。私は人を満足させるためにではない。自分自身を満足させるために描くのだ。私はキュービスムやロンディスム等・・・の定義や形式には無関係だ。私は流行衣服屋でもなく、医者でもなく、また科学者でもない。科学は私の歯を痛ませる。私は数学、代四次元も黄金分割も知らない。キュービストの形式は、私にとっては。はなはだ軍隊式だ。君も知るごとく、私は軍隊式の男ではない。兵営は私を神経衰弱にさせる。そしてキュービストの訓練は私の父の言葉を思い出させる。-軍隊はお前にいいだろう。健全な性格を与えられるだろう!-
私は一般のクラッシックなる言葉を好かない。私は狂者が恐ろしい。理屈ばった狂者、数学、キュウービズムと科学は一九一四年八月四日、無残にも誤れる結果を我々に証明した!

しばしば僧侶が信仰を妨げ、科学が本能を殺すごとく美術館は人の個性を毒する。

次にルソーセザンヌルノアールについて語る。p109 」