小出は件の趣旨の方法論を具体的に以下に纏めている。
≪ ところで私は正直にいうと、この素描即ちデッサンの勉強というものは、個人が勝手に、家にあって習得する事の頗る困難なものなのである。何故なら、石膏像を忠実に写そうとしても最初の人にとっては、その正確な形、その明暗の調子や光の階段を本当に認める事が容易な事ではないのである。それから石膏像の種類を個人としてはさように数多く設備する訳にも行かないので一つの胸像を毎日描いていると飽きてしまって興味が続くものではない。それでなくともデッサンは、かなり無興味な仕事と考えられやすいのである。
それから、石膏よりもなお一歩進んで人体の素描に及ぶと、なおさら毎日々々モデルを個人で雇う事も随分の贅沢(ぜいたく)であり、永続きのしない事である。
そこで本当に勉強しようとすれば、何んといっても、大勢の画家が集って、各々がお互に眺め合い、せり合い揉(も)み合ってグングンと進んで行くのがよい方法である。
それは、私自身の経験に見ても、昔、白馬会(はくばかい)の研究所でおよそ一ケ年と、美校の二年間のデッサン生活において、先生の指導も結構に違いはなかったが、お互の競争心理が、絵を進ましめる事に非常な力があった事は確かである。
そこで私は普通学の勉強時代やアマツールとしての時代がすみ次第に本当に絵をやろうとするにはやはり美校あるいは相当の研究所へ通う事が最も適当な方法であろうと考える。≫
以上述べたことが本邦に洋画、油彩が本格的に持ち込まれた明治以降の美術教育の考え方であろう。この趣旨は今も生き続けている、と言うか、逆に「何とかアート」とか「創造の自由」の名でクソも味噌もイッショクタにされるような今こそ立ち返るべき造形の原点のような気もするが、当時にあっては、国家による近代化、制度化の規範が文化にも及び、(今も別の意味でそうだが)その裾野も狭かったこともあり、画家になるためには「美校」に行かなければならず、美校に行くためには研究所に行かなければならないといった、長い伝統ある西洋以上に硬直化した、そのような慣例があったのは事実だろう。
そうした中、小出と同時代の、正にそのような経歴を踏んだ、齢30そこそこの佐伯がそのような影を引きずるのは止むを得ないことであるが、反面アカデミズムやそれに反抗するものとの鉄火場の只中にあったヴラマンクが件の言葉を吐くのもまた当然のように思う。
しかしここでちょっと考えるに、佐伯の造形はその後の彼の評価を見るまでもなく、本邦においては新鮮な衝撃あるものとして登場したものである。もし佐伯の絵がアカデミズムの呪縛に強く縛られていたものなら逆にヴラマンクはそこまで言わなかったかも知れない。半端ながらもアナーキーでフォーヴな、新しい造形の萌芽、これこそ佐伯の才能というものであるが、それを見たからこそ、その徹し切れていない部分につき文句を言ったのであろう。
この辺のことはなお究明すべきこととしておきたい。
≪ ところで私は正直にいうと、この素描即ちデッサンの勉強というものは、個人が勝手に、家にあって習得する事の頗る困難なものなのである。何故なら、石膏像を忠実に写そうとしても最初の人にとっては、その正確な形、その明暗の調子や光の階段を本当に認める事が容易な事ではないのである。それから石膏像の種類を個人としてはさように数多く設備する訳にも行かないので一つの胸像を毎日描いていると飽きてしまって興味が続くものではない。それでなくともデッサンは、かなり無興味な仕事と考えられやすいのである。
それから、石膏よりもなお一歩進んで人体の素描に及ぶと、なおさら毎日々々モデルを個人で雇う事も随分の贅沢(ぜいたく)であり、永続きのしない事である。
そこで本当に勉強しようとすれば、何んといっても、大勢の画家が集って、各々がお互に眺め合い、せり合い揉(も)み合ってグングンと進んで行くのがよい方法である。
それは、私自身の経験に見ても、昔、白馬会(はくばかい)の研究所でおよそ一ケ年と、美校の二年間のデッサン生活において、先生の指導も結構に違いはなかったが、お互の競争心理が、絵を進ましめる事に非常な力があった事は確かである。
そこで私は普通学の勉強時代やアマツールとしての時代がすみ次第に本当に絵をやろうとするにはやはり美校あるいは相当の研究所へ通う事が最も適当な方法であろうと考える。≫
以上述べたことが本邦に洋画、油彩が本格的に持ち込まれた明治以降の美術教育の考え方であろう。この趣旨は今も生き続けている、と言うか、逆に「何とかアート」とか「創造の自由」の名でクソも味噌もイッショクタにされるような今こそ立ち返るべき造形の原点のような気もするが、当時にあっては、国家による近代化、制度化の規範が文化にも及び、(今も別の意味でそうだが)その裾野も狭かったこともあり、画家になるためには「美校」に行かなければならず、美校に行くためには研究所に行かなければならないといった、長い伝統ある西洋以上に硬直化した、そのような慣例があったのは事実だろう。
そうした中、小出と同時代の、正にそのような経歴を踏んだ、齢30そこそこの佐伯がそのような影を引きずるのは止むを得ないことであるが、反面アカデミズムやそれに反抗するものとの鉄火場の只中にあったヴラマンクが件の言葉を吐くのもまた当然のように思う。
しかしここでちょっと考えるに、佐伯の造形はその後の彼の評価を見るまでもなく、本邦においては新鮮な衝撃あるものとして登場したものである。もし佐伯の絵がアカデミズムの呪縛に強く縛られていたものなら逆にヴラマンクはそこまで言わなかったかも知れない。半端ながらもアナーキーでフォーヴな、新しい造形の萌芽、これこそ佐伯の才能というものであるが、それを見たからこそ、その徹し切れていない部分につき文句を言ったのであろう。
この辺のことはなお究明すべきこととしておきたい。