次に小出は画家たるものが取るべき基本的スタンスについて述べる

≪画家は先ずこの世の中の地球の上に存在する処の、眼に映ずると同時に心眼に映ずる処の物象の確実な相を掴(つか)みよく了解し、よく知りよくわきまえ、その成立ちを究(きわ)める事が肝要ではないかと思う。
 この世の物象をよく究め了解する事においては、目下油絵技法の根本の仕事としては一般に先ず最初は素描、即ちデッサンの研究によって自然の形状、奥行、光、調子、といった事柄を探索するのが最も安全にして重要な仕事とされている。
 即ち自然は如何に成立っているものか、地上にあるあらゆる空間、風景、動物、静物はどんな約束で構成されているのか、世界にはどんな調子があり、リズムがあるか、太陽の光はどんな都合に世の中を照しているのか、それによる色彩の変化強弱その階調等それらを如何にして画面へ現すものか、といった風の事を調べるのである。≫

 以下も同様な趣旨である

≪要するに、よくこの世界を了解するという事は、よく観察しよく写実しなければ油絵は成立って行き難いものである。
 そこで油絵技法の基礎工事としてその写実の研究方法として、一般に行われている確実な方法というのは即ち素描(デッサン)をやる事である。
 しかしながら、素描と一口にいっても、その範囲は頗(すこぶ)る広いものである。例えばコンテーを以(もっ)て描かれたもの、あるいは木炭、ペン、毛筆等で描かれたもの、あるいは一切の色彩を交えない線描の絵の一切を素描という事も出来る。あるいは日本絵の下絵や鳥羽僧正(とばそうじょう)の鳥獣戯画やその他雪舟(せっしゅう)の破墨(はぼく)山水に到(いた)るまでも素描といえばいえるものである。
 しかし、ここでいう処の油絵の基礎としての素描、デッサンは、油絵の基礎工事としてのものであって、即ち、木炭紙の上へ木炭を以って、石膏(せっこう)の胸像あるいは生きた人体を写生し、その形態、平面、立体、凸凹、明暗の調子等の有様を研究し表現する処の仕事をいうのである。


 上記のような事を踏まえ、安易にこれを否定する流れに釘をさす

≪初学の人たちがその考えだけは立派な芸術的な考えを以って、いろいろの展覧会や画集において見た処のマチスやルオーやピカソ的素描を、直ちに石膏や人体に向って試みようとするのをしばしば見る事がある。あるいは直ちに一切の写実を飛越えて、構成的素描や、油絵を制作するのがある。それも結構ではあるが、あまりに芸術の奥儀にまで一足飛びに飛び過ぎているものというべきである。
 日本へ渡来する西洋のいい絵や立派な素描の多くは、その諸大家の学生時代の習作では決してないので、それは雪舟の山水の如く鳥獣戯画の如く、素描それ自身がすでに充分完全な芸術作品となり切ったものなのである。
 即ちそれらは肥料でなく花であり実である処のものである。
 それらの花や実を結ぶ以前において、如何に多年の手数と肥料が施されているかという事を承知しなくてはならないと思う。
 米のなる木をまだ知らぬという俗謡がある。日本にいると、全く米のなる木を知らずに過している事が多いのは頗る危険な事である。
 素描、油絵、あらゆる西洋芸術は、すべて花となり切って渡来する。その花を見て直ちにその模製を試みる事は、庭の土から直ちにライスカレーを採集して以って昼めしにあり付こうとする考えである。
 短気は損気という言葉もある。ホルバインの素描における一本の線あるいはマチスの極端に省略された一条の線の裏には、どれだけ捨て去られた多数の線が存在しているかを知らねばならない。
 そこで、私は絵の基礎的工事ともなり、肥料ともなるべき充分の科学的な素描の仕事をする事を勧めるのである。即ち絵画芸術の奥儀にまで飛ぶ事をしばらく断念して、出来得るかぎりの正確さにおいて、石膏あるいは人体の実在をよく写実する事である。そして自然の構造とあらゆる条件を認識すべきものである。