よく言われる「デッサン」について、その意味はかなり幅のあるものであるが、かなり限定的に使われ、その意義を語る上で一苦労する場合がある。
 先ず、絵画で一番大事なものは何かと問われたら、勿論内容だが、それは人それぞれ感じ方が違うし、曖昧と言えば曖昧なので、私は「絵画的な安定・バランス」と答える。
 古今東西美術史上名を残した作品でそれを欠くものは 一つもないと言ってよい。例え「不安感」の表現から「不安定」を意図したものとしてもあっても「不安定」なりに「安定」しているものである。
 人は何事も安定していないものは「不快」に感じ、不快に感じるものには「拒否反応」を持つので、ストレートに受け入れることはできない。だからそういうものは初期段階で排除される。だから当然にどこにも残らない。
 問題はその安定の内容である。例えば「リアリズム」と言わないまでも、描写をベースとする具象絵画においては、「デッサン」(狭義の)やヴァルールの狂いが一箇所でもあったら総てが台無しとなる。作品としても商品価値としてもパーである。したがって、そういう意味でのデッサン等の狂いは誠に怖い。だから細心の注意を払う。人間の目は、極端な例の「錯覚」を含め、例え間違っていてもそれに慣れてしまうということがある。だから私もよくやるが、「鏡の逆画像」を見る。狂いや調子の飛びは一目瞭然である。
 また描かれているものがなんだか判らないのも困る。ネコを描いたのに「かわいい犬ですね」なんて言われたら当初のメッセージが伝わってないことになる。
 つまりこれらは「正確に描く」と言う訓練に係る、デッサンというより「造形アカデミズム」としてとらえるべきこと。「石膏デッサン」はその要素が全部詰まった合理的訓練方法である。美大ではみんな描写的な絵を描いているわけではない。基本的に自由。しかしその美大に入るには半端でないこの訓練が求められる。「昔川端今水道端」(判る人はわかる!)と言われるごとく、佐伯以下多くが、美大以前に研究所でこの訓練をした。即ちそういう方面では真の自由とは相当の修行の上に立つとの認識が有ると言うのは事実である。
 一方、観察力、表現力、描写力、構成力など、先天的なものが大きいが、迷いのない、洗練された筆捌き、洒落た「絵作り」にはそのアカデミズムの中の「構成」や「フォルム」の処理が中心課題となる。質・量感やトーンは第一義には問題とされない。これが上手いのがモディリアニ、ワイエス、本邦では宮本三郎あたりか。ただこれは行き過ぎると嫌味になる場合もある。このような「応用デッサン」はアカデミズムとはとりあえず別のものといってよい。
 最後に自由奔放な絵の例である。わかりやすいので、私はよくアンリ・ルソー、山下清、グランマ・モーゼス等のナイーフ系の絵をあげる。村山槐多やゴッホもどちらかと言うとその系列だが、一見本能だけで描いているようなところがあるが、結果的に分析すると、実に破綻なく、絵画的に安定して、かつパラノイアックと言えるほど技術的である。これは「エスキース」、「下絵」と言う意味あいの方が強いが、彼らは、紙と鉛筆こそは使わないが、イメージ上のデッサンを常人の数十倍していると思われる。
 もう一つ、このような自由奔放な絵というのはそれなりに徹してなければならない。半端にアカデミズムが混在しているのも「不安定」なのである。他に「デフォルメ」と言う概念もあるが、これらが有効にできるという人は、優れたデッサン家、あるいは相当なデッサンをこなした人である場合が多い。自分が否定すべきものをよく知らなければ、有効に否定もできないからである。
 佐伯がヴラマンクのところへ持っていったという50号の裸婦がどういうものかよく知らないが、おそらく「このアカデミズム!」はそういう徹し切れてない点を突いたのではないか。逆に佐伯が完璧なアカデミズムを示していら「君は上手い!しかし来るところを間違えたね!」と言ったのではないか?
 いきなりタブロー描いてもそう上手く行かないものである。作品の傾向に応じ、このように、それぞれ「デッサン」はあると思う。つまりデッサンとは造形アカデミズムに限られない。デッサンしろとは、石膏デッサンを必ずしろということではないのである。