模写の意義については今までも書いた。模写が絵画の有効な勉強法として古今東西それが繰り返されてきたのは事実である。その最大の意義は「追体験」にある。
言い換えるとそれが単なるビジュアルな外観の転写の成否で終わってしまうとその意義は半分もないし、出来も底の浅いものでしかない。
例えば、石原靖夫はシモーネ・マルティーニの黄金背景テンペラの「受胎告知」を模写するに、その支持体である木材の選択から外枠の装飾まで、オリジナルと全く同じ手続きを踏んだ。グリザイユベースの古典を真に模写しようと思ったら、先ずグリザイユから始めなければなるまい。
上掲模写は筆者が何点かしたコロー模写の一つである。初めてこの複製を見た時、その清冽な大気、漂う気品、爽やかで透明な詩情に感嘆し、一体どうしたらああいう色彩が出せるのか、何としてもその秘密を探りたいと思った。もしあの色彩を今日的な通常の絵画に使ったとしたら、おそらくどこへ出しても通用しない、どうしようもない作品となるだろう。実際パッレト上の色彩は、暗く、活気なく、濁りまくった誠に始末の悪いであったが、コローの手にかかると、並みのものより格上の詩情溢れる色彩世界となる。
そうした「色彩の逆説」は、広く古典派絵画の特質でもあり、絵画芸術の妙味に他ならない。「色彩の美しさ」とはチューブから出したての原色に近いもの、と言う概念が蔓延ったのは印象派の罪というより、そうとしか解釈できない近代以降の一般的色彩観の誤りであろう。即ち、的確なフォルムの上に乗った、コローで言うなら、巧みな空間構成、トーンやヴァルール処理と相俟って輝きを放つと言うのも、もう一つの色彩の意義なのである。
その辺を理屈でなく、実体験として認識できたというのは、描く者ならでは幸いである。これを自らの絵画世界で展開させるというのもまた一苦労であるが。