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Ψ筆者作「棚田の夏」 F120 油彩

 「コローの緑」に憧憬した「森シリーズ」、イメージとの融合を図る「青バラシリーズ」、そして、その面白い造形性を追究しての「棚田シリーズ」、どうやら暫くは、ライフワークとしては、この三者が定着してきたようだ。ただ、生涯のものとしては、これに古くからの「橋と川シリーズ」が加わるが、これはヨーロッパの取材をベースとするものなので、いろいろ条件を整てからの話となる。
 因みに仔細は別記事記載により省略するが、美術史上の具象絵画とは概ね、メッセージ性重視の「表現主義的傾向」、色・形等造形要素そのもの解放の「造形主義的傾向」、精神性の自由な展開の「イメージ絵画」の三者に大別される。上記ライフワークは、期せずしてこれら総てをカバーし得るものなので、その意味では欲求不満は残らないはずだが、とりわけ「棚田」にはその総てを盛り込みたいとの欲張りな思いに応えうるのではないかと思っている。

 さてその棚田だが、古典、印象派を問わずヨーロッパ風景画にはこのジャンルはない。当然棚田がないからだ。棚田とは狭い国土のところが、斜面を有効活用して稲作を行うもの。即ち、広ければ棚田にする必要はないし、稲作自体も行われないので当然のこと。
 東南アジアや中国のはもっとスケールの大きな棚田が存在するが、そこらは今度は油彩風景画の伝統がない。因みに「田毎(田ごと)の月」とは田んぼ毎に月がいくつも映っているという、日本画や写真のモティーフとしてしばしば見かける。
 つまり、まがりなりにもその双方の要件を満たす、本邦固有の油彩風景画のモティーフということになる。その最大の魅力は、何と言っても、その複雑な幾何学模様の、構成・構図上の妙味に有るが、それだけでない。例えば棚田のあるところは当然山の斜面、つまり山里深いところで、森や川など周辺の景色も良い。また季節や地方によりその表情が変わる。田植えの頃は「水」という恰好のモティーフが現れるし、刈り入れ後は、地方によって呼び名が違うようだが、「積み穂」の群れが点在する。
 ただ問題もある。棚田自体もそう易しいモティーフではないが、前述したとおり、そういう山の斜面を利用するようなところは、駅からも遠いし、路線バスもない。あったとしても何時間に一本など、地元の人の利便しか配慮したものではない。また、イーゼルを立てる場所にも神経を使うべきこと。

 ところで、最近は、国策であった「減反政策」の煽りもあるのか、「耕作放棄」と呼ばれる廃・休耕田が目立つ。生きてるものも、地元の人ではなく、街の人の「棚田保護ネットワーク」のような、市民運動のようなものに支えられているものが多い。したがって,描く方としても、畦道では描かないとか、ゴミは持ち帰るとか、「絵描き」が嫌われるようなことは避けなければならない。
 さて、今回、上掲の作品とは別のところへ、水のあるうちにと早めの取材に行った。やはり、場所は大変だった。宿やタクシーの運転手さんたちに助けられ、あるいは通りすがりの親切な地元の人の車にのせてもらい、やっと取材ができた。
 霧が晴れた、雨上がりの湿っぽい空気の中に、幻のようにポッと浮かび上がった棚田の一角は実に美しく、ターナーやバルビゾン派の絵のようで、こう言う感激はそれなりの苦労をしなければ得られないと改めて感じた。
 さて、これからが勝負!