Ψ筆者作 F120号油彩カマイユ的下絵 (画像削除)
印象派は、古典派絵画との境目となる、美術史上革命的とも言える一大エッポクを画したが、その最大のものは「色彩」の扱い、その新展開を開いたということだろう。
色彩を単なる何某かのメッセージの手段としてではなく、それ自体に固有の造形的生命を見出したのである。そしてその考え方に沿い、その後の絵画史において色彩とは絵画的価値を決定する重要な要素となった。即ち「色彩がない」、あるいは「その扱いに工夫がない」というのは大きな評価の上ではマイナスポイントとなるのである。
こうした、今日的にはマイナスポイントとなるべきものを差し置き、それをカバーして余りある完成された造形性により、優雅で品格のある芸術性を得たのが古典絵画である。とするなら、漫然とその後の色彩礼賛に組するのではなく、あらためて「古典派における色彩」の扱いを究明してみるというのもへそ曲りならぬ身でも今日的意義があるのではないか。巷にはウンザリするくらい色彩が溢れているし、そのケバケバしさより黒を介した落ち着き、深み、品格の方に魅力を感じるというのも自然なことである。そういうことでその追究に試行錯誤を重ねてから久しい。
古典絵画は、厳格な無彩色のトーンの繋がりを介し、もののリアリティーを表現するが、当然「黒」の扱いの巧みさには驚嘆する。黒とは言うまでもなく使い方を一歩間違えば、暗さ、活気のなさ、濁り等地獄の底へ持っていかれる「諸刃の剣」である。にもかかわらずいつも古典の黒の混色に関しては、どうしてこんな色が出せるのだろうか、あるいは、どうして色彩をこのように捉えたのだろうかという感慨を持つ。
いろいろ考えてみた。例えば、顔料の練り込みから始めるような時代では、現在のような豊かな色彩や色数が元々なかったのではないか?あるいは、ヨーロッパ人特有の人種的(?)「クセ」のようなものか?などといろいろ考えたりしたこともある
結果これは、厳格なリアリズムに基づく、色彩への「考え方」の問題ではないかという結論に達した。
例えば、りんごは赤い。しかし表面から芯まで赤い色素がビッチリ詰まっているわけではない。最終的に目に見える、表面の、ほんの何%かが「しばらく」あるいは「とりあえず」、そういう色をしているだけである。
油絵具というのは非常に重厚な、深みとコクのある素材である。もし赤いりんごを最初から赤で、かつ厚塗りをしていくと、非常に重たい、単調ともいえる絵具固有の物質性の強い色面と色層を形成する。つまりそういうこと自体がもののリアリティーに適っていないのである。
因みに、さすがに印象派もこの単調さは避ける。以下の工夫をして色彩にニュアンスをつける。
〇混合…例 赤と青を混ぜて紫をつくる
〇併置…同 赤と青の点や線を併置させて紫を感じさせる。明るい部分を赤、暗い部分を青で塗るのはそ の展開
〇透層…同 下層に青、上層に赤(あるいはその逆)を塗り、透かして紫を感じさせる。
こうしたことを違う色味同士でも行う。
もう一つ。黄色い家があるとする。これを最初から黄色い絵具で塗っていくと前記のりんごと同様な重い、単調なものが出来てしまう。そもそも実際の家自体もそうなっていない。構造的には木なり石なりで出来、表面を黄色いペンキで塗装したに過ぎない。
だから古典の画法はその通りに塗るのである。これらは物質のリアリティー表現に関わることである。
人間の皮膚となると最難物。皮膚の固有の色味など存在しない。色々な色味が複雑に絡み合ってあのような色に「とりあえず」見えるだけである。皮膚の下の赤い血は緑に見える。だから古典はその通りに緑色を仕込んだりするのである。
空や海の青もそう見えるだけで青い色素の実体があるわけではない。このように考えると、万物の色彩とは、二次的、副次的なもので確固たるものではないと言える。物質の根源的存在は色彩以前ににあるのだ。仏教の「色即是空」とはその意味でもリアリティーある言葉と思う。
つまりこうした古典の「色彩」とは「リアリズム」に基づく捉え方と、諸々の造形的合理性の中から考えられたものと言える。グリザイユ(灰色)、カマイユ(褐色)、ヴェルダイユ(緑色)等の技法はその証左であろう。
というわけで、古典の色を追究するにはその画法から踏襲すべしということで今回は件の下絵となった。前記グリザイユ、カマイユ、ヴェルダイユに因み、この画法を命名すれば、そのやや偏執狂(パラノイア)的手法から「パラノイユ」とでも呼んでおこう。
印象派は、古典派絵画との境目となる、美術史上革命的とも言える一大エッポクを画したが、その最大のものは「色彩」の扱い、その新展開を開いたということだろう。
色彩を単なる何某かのメッセージの手段としてではなく、それ自体に固有の造形的生命を見出したのである。そしてその考え方に沿い、その後の絵画史において色彩とは絵画的価値を決定する重要な要素となった。即ち「色彩がない」、あるいは「その扱いに工夫がない」というのは大きな評価の上ではマイナスポイントとなるのである。
こうした、今日的にはマイナスポイントとなるべきものを差し置き、それをカバーして余りある完成された造形性により、優雅で品格のある芸術性を得たのが古典絵画である。とするなら、漫然とその後の色彩礼賛に組するのではなく、あらためて「古典派における色彩」の扱いを究明してみるというのもへそ曲りならぬ身でも今日的意義があるのではないか。巷にはウンザリするくらい色彩が溢れているし、そのケバケバしさより黒を介した落ち着き、深み、品格の方に魅力を感じるというのも自然なことである。そういうことでその追究に試行錯誤を重ねてから久しい。
古典絵画は、厳格な無彩色のトーンの繋がりを介し、もののリアリティーを表現するが、当然「黒」の扱いの巧みさには驚嘆する。黒とは言うまでもなく使い方を一歩間違えば、暗さ、活気のなさ、濁り等地獄の底へ持っていかれる「諸刃の剣」である。にもかかわらずいつも古典の黒の混色に関しては、どうしてこんな色が出せるのだろうか、あるいは、どうして色彩をこのように捉えたのだろうかという感慨を持つ。
いろいろ考えてみた。例えば、顔料の練り込みから始めるような時代では、現在のような豊かな色彩や色数が元々なかったのではないか?あるいは、ヨーロッパ人特有の人種的(?)「クセ」のようなものか?などといろいろ考えたりしたこともある
結果これは、厳格なリアリズムに基づく、色彩への「考え方」の問題ではないかという結論に達した。
例えば、りんごは赤い。しかし表面から芯まで赤い色素がビッチリ詰まっているわけではない。最終的に目に見える、表面の、ほんの何%かが「しばらく」あるいは「とりあえず」、そういう色をしているだけである。
油絵具というのは非常に重厚な、深みとコクのある素材である。もし赤いりんごを最初から赤で、かつ厚塗りをしていくと、非常に重たい、単調ともいえる絵具固有の物質性の強い色面と色層を形成する。つまりそういうこと自体がもののリアリティーに適っていないのである。
因みに、さすがに印象派もこの単調さは避ける。以下の工夫をして色彩にニュアンスをつける。
〇混合…例 赤と青を混ぜて紫をつくる
〇併置…同 赤と青の点や線を併置させて紫を感じさせる。明るい部分を赤、暗い部分を青で塗るのはそ の展開
〇透層…同 下層に青、上層に赤(あるいはその逆)を塗り、透かして紫を感じさせる。
こうしたことを違う色味同士でも行う。
もう一つ。黄色い家があるとする。これを最初から黄色い絵具で塗っていくと前記のりんごと同様な重い、単調なものが出来てしまう。そもそも実際の家自体もそうなっていない。構造的には木なり石なりで出来、表面を黄色いペンキで塗装したに過ぎない。
だから古典の画法はその通りに塗るのである。これらは物質のリアリティー表現に関わることである。
人間の皮膚となると最難物。皮膚の固有の色味など存在しない。色々な色味が複雑に絡み合ってあのような色に「とりあえず」見えるだけである。皮膚の下の赤い血は緑に見える。だから古典はその通りに緑色を仕込んだりするのである。
空や海の青もそう見えるだけで青い色素の実体があるわけではない。このように考えると、万物の色彩とは、二次的、副次的なもので確固たるものではないと言える。物質の根源的存在は色彩以前ににあるのだ。仏教の「色即是空」とはその意味でもリアリティーある言葉と思う。
つまりこうした古典の「色彩」とは「リアリズム」に基づく捉え方と、諸々の造形的合理性の中から考えられたものと言える。グリザイユ(灰色)、カマイユ(褐色)、ヴェルダイユ(緑色)等の技法はその証左であろう。
というわけで、古典の色を追究するにはその画法から踏襲すべしということで今回は件の下絵となった。前記グリザイユ、カマイユ、ヴェルダイユに因み、この画法を命名すれば、そのやや偏執狂(パラノイア)的手法から「パラノイユ」とでも呼んでおこう。